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2014年1月24日金曜日

ビザ・ランをしようとする不法滞在のカナダ人



 税関と入国審査の通過は海外旅行にはつきものとはいえ、退屈でイライラする。だから成田国際空港で赤い線に立って次の入国審査窓口が空くのを待っていた僕は少しびくびくしていた。

「すでに日本に3ヵ月滞在してますね。なぜ戻ってこようと思ったんですか?」

 審査官は尋ねた。頭の中で何百回も練習していた場面なので、胸の動悸を抑えつつ、冷静に答えた。

「前の3ヵ月はほとんど東京近辺にいたので、日本国内の他の地方を見る機会がなかったんです。だから北海道でスキーをしたり、長野でオリンピック村を見たり、もっと日本観光をしようと。」

 本当は、3ヵ月前、僕が英語教師の職という伝説の財宝を求める大勢の外国人のひとりとして来日し、そのほとんどと同じく、最初の3ヵ月は空振りに終わった。ビザ失効の1週間前にバンコクに出国し、これから2度目の挑戦というところだった。観光を言い訳に再入国しようとしたわけだ。

 入国審査官が僕の話を信じていないのは沈黙の長さでわかった。そして聞きたくなかった短い返事が、ありふれた何気ない3単語が、あの日、僕の薄っぺらな冷静さを完膚なきまでに粉々に打ち砕くハンマーの一撃になったのだった。

「ワン モーメント プリーズ」

 その一言で、今日はついてない日だとわかった。僕は自分を呪った。何をやらかした?どこで失敗した?カウンター越しに審査官が上司を連れて戻ってくるのが見えた。僕の脳裏にバンコクで目覚めた時の嫌な予感が蘇った。そのときは早朝のフライトのために空港で徹夜したせいで神経が高ぶっているだけだと頭からかき消したが、タイ移民局に逮捕拘留されたアメリカ人についての悲惨な投書をバンコク・タイムズで読んでから、不吉な予兆が膨れ上がっていた。

 その予兆は彼の話に沿ったものだった。30人の男たちが大小便をする地面の穴しかない悪臭漂う満員の監房というイメージは、哀れな奴だな、という見下した思いをもってしても消えることはなかった。彼はただ最悪な扱いを受けたというだけでなく、バンコクで不当逮捕されたのだ。僕が滞在していた1週間の間にも、タイ警察の麻薬ギャングに対する暴力的な取締が行われていて、麻薬の売人とされる6人が即刻死刑に処されたバンコクで。

 僕は列から連れ出され、壁で仕切られた中央管理部の一室に通された。彼女からの手紙には北海道に滞在する間彼女のおばの家に世話になると書いてあったので、僕はそれを持ち出せば主張を通せるはずだと思っていた。

「日本は小さな島国なのに、どうして戻ってきたいんですか?」

 上司は頭を前後に揺らしながら尋ねてきた。僕はさっきと同じように答え、手紙を見せた。彼はしばらく黙り込み、1分ほど何も言わずに手紙に目をやった。そして彼はくだけた口調で、他に日本人の知り合いはいるかと尋ねた。彼は手紙のことは気にもかけない様子で、知人たちの名前と電話番号を書くよう僕に指示した。ペンと紙を渡された僕は日記のページを繰り、片膝に紙を、もう一方の膝に日記を置いて指示通り書き写した。すると彼はまた無関心を装うような何気ない口調で、書いている僕に向かって、東京で3ヵ月間何をしていましたか、どこへ行きましたか、何を見ましたか、と尋ねた。

(イメージです)
 僕は姑息な手段にもひるまず、友人と渋谷や新宿で夜遊びしたこと、歌舞伎を見たこと、週末に神戸旅行をしたこと、たくさんの日本人の家にお邪魔したことなどを滔々と話した。その間、彼はまたも何気ない様子で手を伸ばすと、僕の日記を手に取った。ページをめくり、面接リストに書かれた給料、学校の特色、契約条件に行き当たると、彼の顔は険しくなり、3つのパートタイム英語教師の仕事のスケジュールをを見つけたところで、僕を見る彼の目つきは険悪で冷徹なものになった。

「いろいろと説明してもらえますかね」

 彼はそう冷たく言い放ち、僕は彼が日記のコピーを取るのをパニックに陥りながら眺めていた。恐怖のあまり吐き気の波が押し寄せ、額と背中に流れる冷や汗が、胃の中でゆっくりと凍りついて固いしこりになるのがわかった。いまや嫌な予感は現実になり、僕は日本に再入国できず、生徒にも、雇い主にも、アパートで僕の帰りを心配しながら待ってくれているかわいくて優しい彼女にも、会えなくなると考えざるを得なくなった。僕は努めて理性的になろうとした。

「彼らは何も証明できないし、旅行者として仕事を探すのは違法じゃない。」

 慰めにもならなかった。僕は日記の全内容を思い出そうと無駄なあがきをした。コピー機の前で背中を丸め、日記のすべてのページをきっちりコピーしている入国審査官に目をやった。それから時計に視線を移し、数秒ごとにコピー機が作動音を発し、緑色の光がむき出しのコンクリートの白い壁に反射する中、苦痛に満ちた時間がゆっくりと過ぎていくのを眺めた。捕まって違法労働の疑いが濃厚となった今、この嘘を最後までつき通す以外に僕にできることはないとわかっていた。僕にはまだ入国審査を通過する一縷の望みがある、彼らを説得してここから抜け出すには冷静でいることが必要なのだと、必死で信じ込もうとした。

バンコクの水商売
 この日の暗い先行きからのわずかな逃避を求めて、僕の思考はバンコクへと戻っていった。東京が、歴史と驚くべき先進性を高度に融合させ、犯罪率も失業率も低く、超効率的な素晴らしい交通システムを備え、ビルにも公共施設にも活気ある商業にも裕福さが見てとれる理想的な都市であるとすれば、バンコクはそのまるっきり正反対だ。空港からの1時間の移動の間に、打ち捨てられたバンコクの未来を通りのそこかしこで目にした。大通りで錆び付く中断した公共事業で使われた機械類。集合住宅のコンクリートの残骸に立ち並ぶ、廃棄木材とブリキと段ボールでできた掘建て小屋。どの通り沿いにも定間隔で飾られる、タイ人の誇りである国王の巨大でけばけばしいサーカス風の肖像画に、それを不潔な周辺一帯の中に尊大に照らしだす投光照明。

 気温が30℃台後半に達し、大気汚染指数も跳ね上がる東京の暑い夏を僕は経験していないけれど、バンコクでは暑さと排気ガスと下水が生み出す経験したことのない悪臭に直面して、嫌悪感に顔を歪めた。木の床板が危なっかしくガタガタ揺れるおんぼろバスに乗って、運転手がすごい速さで車線を行き来するたびに悲鳴をあげ、揺すられ、押しやられつつ、僕が目にした区画は、どこもいままで見たこともないほど酷い都市荒廃の様相を呈していた。僕はあるイタリア人に、ローマがいかに『素晴らしいひとつの野外博物館』かを事細かに自慢されたのを思い出した。それならバンコクはさしずめ、素晴らしいひとつの野外下水処理場だ。バスが僕の目的地、カオサン通りの外国人地区に向けて夜道を快走する中、僕は空港から出てハイウェイ沿いでバスを待っている間に目にした、奇妙な光景を思い出していた。

 2方向8車線の道路際のバス停で待っている間、車の群れは車線を区切る線も見当たらない道路を交通マナーなど気にもかけずに猛スピードで駆け抜け、ドアのない壊れかけのトラックもひしゃげて応急修理された車も狂ったように走り続ける中、コンクリートの分離帯にたむろする少年の集団は酒を飲み、歌を歌い、通り過ぎる車に石を投げつけていた。午1時の非現実的な光景を眺めていた僕は、バス停のすぐ裏手の茂みのから聞こえた物音に肝を冷やした。唸り声がして茂みが揺れ、皮膚病にかかった老犬がのろのろと、暑さと排気ガスの息苦しさに頭をうなだれつつ現れたのだ。そいつは僕から1メートルもない所まで近寄ってきたが、僕にも車にも無関心な様子で、カーブのところで崩れるように老体を横たえた。僕の目の前でそいつの呼吸はどんどん苦しげになっていき、一息ごとの間隔はじわじわと長くなり、やがて体が痙攣したかと思うと、ついにその犬は息絶えた。バスが到着すると、係員が降りてきて運賃を集め、僕が乗る直前、彼は犬の死体を茂みに蹴り入れた。それを窓にもたれた乗客たちが笑いながら眺めていた。

「一緒に来てください」

 審査官の上司の指示で僕は夢想から覚めた。彼は右手に、きちんと黄色いファスナー付きの透明ビニール袋に入れられた、僕の東京での日記のコピーを握っていた。東京の店員たちが商品をばか丁寧に包装するように、いまや僕の運命は新鮮密封されていた。僕は彼と一緒に部屋を出て、入国審査窓口に絶え間なく流れ込む人ごみを通り過ぎ、通路の先の待合室に通された。そこには僕以外にも3人の外国人が見るからに不安げに歩き回っていた。部屋に入ってきた数人の日本人係官が、うろうろしていた黒人の男を連れ出した。残された僕らは険しい顔で互いに目配せしつつ静かに自分の番を待った。しばらくして戻って来た男は、大袈裟なジェスチャーを交えて、この10分ほどの沈黙を大声で破った。

「信じられない!強制送還だって!書類もパスポートも全部揃ってるのに!」

 彼の声は次第に小さくなり、ふたたび歩き回り始めた。今度は僕のすぐ隣で、信じられないと頭を振り延々と悪態をつきながら。僕はなんとか正気を保ち、勇気を持とうとしたが、泣き言をわめくこいつに挫かれた。次は僕の番で、別の日本人係官の後について入国審査の管理官のオフィスに入った。背の低いはげた男が薄笑いを浮かべながら慇懃に着席を勧めた。

「日本に再入国したいそうですね?」

 管理官は僕が座りもしないうちに尋ねてきた。見上げると彼は微笑んでいた。というか、彼はずっとそうだった。彼のにやけ顔はどんどん大袈裟になり、いまや第二次世界大戦中の米軍のプロパガンダ風刺画に登場する黒ぶち眼鏡に出っ歯の日本人のようだった。彼の後退した髪は軍隊風に短く刈られていた。ちびで太った彼の名は鈴木といった。僕が機械的に話を繰り返す間、彼は腕組みして頭を傾け、笑みを浮かべつつも、魂胆はわかっているという表情を隠しもせず、根気よく聞いていた。

「東京滞在中の旅程を書いてください」

 紙とペンを机に置いて、僕はしばし考えた。休暇といえば1年にたった1週間のゴールデンウィークだけで、海外旅行に行けたとしても、ホテルと観光バスに缶詰になるのが休暇だと思っている何十人もの同じような日本人との『3都市周遊7日間』の貸切ツアーが関の山であろう、この入国管理官に、どう説得したものだろう。彼は手のひらを紙に向けて差し出し、書くのを促した。僕はしぶしぶ紙を手にとり、そして2つめの間違いを犯した。嘘をついたのだ。パニックになった僕は東京で3ヵ月を過ごしたという話が信じてもらえないと思い、大阪の友人のところにも滞在したと、ありもしないことを書いたのだ。彼はそれに即座に反応した。

「大阪!?」

 彼は驚いたふりをした。矢継ぎ早に質問を浴び、僕は最後まで答えさせてももらえなかった。僕をひるませるこの作戦は大成功で、僕は訪れた寺院の数や見た歌舞伎の回数で日本での時間を定義するつもりはないのだと言い訳しようとしたが、彼は僕の自己防衛の姿勢を察知した。彼は明らかに僕がしどろもどろになるのを楽しんでいた。僕はなんとか主張を通そうと、もう一度彼女からの手紙を持ち出した。

 手紙に目を通しながら、彼は僕に東京の知人の名前と電話番号のリストを求めた。財布には友人の電話番号リストが入っていて、彼らに電話さえできれば冷静に僕を弁護してくれるはずだった。管理官は僕に一瞬の隙も与えず、僕が日本から出て行くのが確実になるまで解放する気はないという雰囲気になりはじめていた。僕はあたふたと電話番号リストを探しながら、この鈴木という男は僕の検事であり、裁判官であり、陪審員なのだと思った。この男は明らかに仕事を楽しんでいる。このちびの管理官はきっと、仕事終わりに居酒屋で同僚に、ばかな外人を笑い者にしながら、漁師のように今日の収穫の話をするのだろう。千鳥足で家に帰って奥さんにうやうやしく給与明細を渡しながら、こそこそ隠している青い上着に付いた染みは、きっとJR線にぶちまけた酒と刺身の吐瀉物のものだ。こんな光景は東京の夜の電車では珍しくない。彼の疑いはもはや晴らせそうになかったが、僕はまだ鈴木の外人釣り話のネタになんてなるものかと思っていた。

 困ったことに気づいた。東京で買った一枚の磁気テープを偽造したテレホンカードを僕はいまだに持っていて、それが電話番号リストと一緒に財布のフラップに入っていたのだ。とある界隈でイラン人の行商人が売っているカードだ。違法テレカなど捨てたと思っていたので、隠そうとしたその時、磁気テープのかわりに貼られたアルミホイルが光を反射したらしく、僕の財布を凝視していた鈴木の目に留まった。

「財布を見せてもらえますか?」

 テレカをしまったカードの束を片手に、僕は財布を渡した。

「そのカードも一緒に」

「あなたは悪い外国人ですね。とても悪い外国人だ」

 彼はカードをひらひらさせて、子供相手にするように僕へのお説教を続けた。彼は同僚を呼んでお楽しみに加えた。鈴木は得意顔だった。彼は逮捕をちらつかせて僕を弄び、その同僚は田舎者のように笑いながら、手錠のジェスチャーをしてみせた。二人は互いに日本語で何か言い、鈴木は電話を手にしてどこかへ掛け始めた。僕は彼女の母親には電話しないで欲しい、同棲しているのは秘密だから恥をかかせたくないし、家族に迷惑になるから、と懇願した。そんなことはどうでもいい、と彼ははねつけた。

 僕は何もできず座っているだけだった。彼が誰に電話しているかもわからず、電話をとった相手が警戒し、上手に嘘をついて僕をこの状況から救い出してくれることを祈るしかなかった。僕には好都合なことに、彼は日本語で話すことにしたようだ。後から来た係官を見上げると、視線に気づいた彼はまた手錠のジェスチャーで僕をばかにして、まぬけな笑みを浮かべた。僕は日本人の名高いホスピタリティに大きな疑問を抱いた。彼らは個人の事情に介入せずにはいられないようで、もはやおしまいだと思った僕は、脱走という手段を検討してみた。うまくいきそうにない。入国審査窓口を飛び越えられたとして、職員たちに追われながら、税関の障害を越えるのは無理だろう。机の上のビニール袋を奪わなければ日本から出ることもできない。そう思うと、何かやらなければという気持ちがわき起こった。僕は誰に電話しているのか聞いた。僕には目もくれず、彼は彼女の母親の名前を指差した。あのままバンコクにいればよかった。

 鈴木の突然の発作的行動に、僕は意識を取り戻した。

 鈴木が唐突に断定的な言葉を口にし、僕はタイの回想から引き戻された。

「あなたはただの悪い外国人じゃない」

キャビネットから数枚の書類を取り出して向き直ると彼は言った

「あなたは嘘つきだ!」

彼はずいぶん感情的になっているようだった。僕を嘘つきと呼ぶのはお門違いだ。そもそも東京で違法労働をしていたかどうかという決定的な質問をまだされていないのだから。それに電話一本で僕が大阪にいたという嘘を見破れるはずはなかった。

「彼女は何といったんですか?」

返事はなかった。彼は薄いコピーの業務書類の束に署名するのに忙しいようだ。

「僕には自分に何が起きているのか知る権利がある」

 彼は作り笑いで言った。

「あなたをカナダに強制送還します」

 終わった。チェックメイト。日本の悪徳公務員、必死なカナダ人観光客に勝利。何を言うべきかわからなくなった僕は、どうしようもなくなった人間らしく、懇願した。時間をください。却下。アパートに戻って物を片付けさせてください。却下。電話をさせてください。驚いたことにこれは認められた。彼女のことしか考えられず、アパートに電話して悲しい知らせを伝えようとしたが、留守だった。

 電話を切ると鈴木は僕の署名を求めてきた。自分の都合しか考えていないことに驚かされたが、彼には最初から僕の運命がわかっていたのだ。日記のコピーで足りなければ、偽造カードを持ち出せばいいだけだ。愕然とした僕は、機械的に書類にサインしはじめた。

「あいつは3ヵ月したらまた戻ってくるよ」

と、別に好きでもない人の声が頭にこだまして、僕は二度とそいつに話しかけるまいと心に決めた。このとき僕は最後の大失敗をやらかした。何の書類にサインしているか気にもかけなかったのだ。僕は異議申立の権利を放棄していたと後で知ったが、その時感じたのは敗北感と屈辱だけで、その感覚は大学2年のバスケットボールの準決勝の試合で、実際は1点負けていたのに1点勝っていると思いこんで試合時間の最後の10秒をやり過ごし、尊敬する教授に退学させるぞと脅された時のようだった。

(イメージです)
 僕はまた待合室に戻された。室内の人数は倍になっていた。この日の収穫だ。1時間かそれ以上待たされる間にさらに人は増えた。もう一度電話をかけてみたが彼女にはつながらなかった。僕はひどく落ち込んだ。誰かが話しかけてきたが、興味をもてなかった。その日はフライトがなかったので、次の日の最初のフライトまで広い待合室に移ることになった。その時になってやっと部屋を見渡すと、そこには落胆と恐怖の空気が充満していた。彼らのほとんどは後で日本からの出国を待つ間の同居人になったが、それでも互いにほとんど話もしなかった。僕らは他人の苦痛に冷淡になり、自分勝手に惨めさと軽蔑の思いを抱いていた。僕の脳裏をよぎったのは、僕のシャツを羽織ってアパートで一人で泣いている彼女、突然いなくなった僕に面食らい、また外人教師に裏切られたと思っている担当生徒、戻ってくるという約束を破ったことに腹を立てている雇い主、そして最後に、国に帰って顔を合わせ、見込みの薄い大博打にばかり賭けては失うような僕の人生にまた一つ失敗が加わったことを報告しなくてはいけない人たち。何人もの外人たちが、鈴木という国外退去前の最後の拠り所に向かっていき、うなだれて戻ってくるのを見た。敗北だった。

 人間をかくも効率的かつ冷酷に扱い、システマティックに適格性を審査し、希望を打ち砕くやり方にはぞっとする。僕の心の目はその光景を歪め、もっと苦痛に満ちた、旅行者もまばらなどこか辺境の国境通過点で入国の承認を待つ場面へと変えた。名前が呼ばれ、僕は武装した兵士に連れだされる。10代の兵士が片言の英語で僕のランニングシューズを

「コンバース‥クール」

と褒めるのが聞こえ、僕は野原に連行される。ひざまづかされ、10代の処刑人のひとりが何か言うのが聞こえる。金をよこせ?裕福で太った彼の顔は...

「1泊300ドル払ってください」

 僕は警備会社のオフィスに座っていた。この会社は税関と入国審査の手続きを終えた国外退去者の管理を請け負っていて、僕の死地への旅の妄想を中断したのは制服の太った男だった。きつく締めた襟から膨張したような丸い顔は、小さな青い帽子と相まって、やたら大きく見えた。僕は自分自身を閉じ込めることに金を払うよう強要されていた。

「イヤだ、払わない」

 いまさら断固とした態度をとることに意味があるのかはわからなかったが、どうせ監房で一夜を過ごす権利を買わされるなら知ったことか。時刻は3時半。僕は1時の到着からずっと拘束されていた。事態は最悪で、日本に戻れる見込みはもうほとんどなかった。めまぐるしく事が進んだせいか強い反論を全くしてこなかったことに気づいた僕は、失うものがなくなった今、事態の進展を引き延ばすことにした。

「カナダ大使館と話をさせてくれ!」

 彼は不信感に満ちた眼差しを取り戻した。日本人は対立的な行動への対処が苦手なのだ。

「無意味ですよ。あきらめなさい。もうおしまいなんです」

 彼の言葉は耳に入らなかった。僕は領事館の人間と話すまで何も言わず何もしないことに決めた。椅子にもたれ、たばこに火をつけた。

「これは脅迫だ。大使館の人間と話したい」

 僕は楽しんでいた。もうカモにはならない。要求が通るまで、挑発と拒絶を続けてやろう。僕は外国の公務員に脅されたカナダ国民なんだ!そうしてカナダ大使館が人を寄越すまで、僕はできるかぎりリラックスして待とうとした。バンコク滞在中、僕の一日はやっと辿り着いたバンコクのゲストハウスのロビーで受けるタイ古式マッサージで始まったのを思い出してみた。若くて綺麗なタイ人女性が首と肩の凝りをしっかりほぐし、強い手つきで筋肉のあらゆる痛みや緊張を取り除いてくれた。今や僕は東京ではなくバンコクを目的地にしていればよかったと思っていて、このざまからなんとか脱出できたら、すぐにでもバンコクに向かおうと誓った。

 大使館から人が来ることはなく、電話も二度と使わせてもらえなかった。3時間訴え、叫び、机を叩き続け、僕の遅延戦術は正当化しがたいものになってきた。もう午後8時近くになっていて、電話が認められたところで大使館には誰もいないだろう。そうして結局、違法テレカの件で逮捕するぞと脅されて、僕は金を払い、その日入国を拒否された20数人の外国人と共に監房で一夜を過ごした。これが1日の平均的な違法入国摘発数だとすれば、年間収入200万ドルを越えるおいしい商売だ。侮辱のとどめの一撃は、ロサンゼルス国際空港からの接続便は手配すらされていなかったことだ。

こうして僕は1年間の日本への入国禁止を食らった。その先も入国しようとすれば入念な取り調べを受けるだろう。

バンクーバーに戻って、友人たちにこの話をした時、僕は再入国できていたらあの冬長野でオリンピックを生で観戦できたはずだったのが本当に悔しい、と言った。

「いや、冬季オリンピックはまだ98年からだろ」と誰かに指摘された。

 僕は、嘘が下手なようだ。
長野五輪のマスコット