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2014年9月20日土曜日

英字新聞ジャパンタイムズの検閲

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 次のコメントは、電子メールを介してコミュニティ・セクションエディタに届けられた後に、ジャパンタイムズの検閲を受けました。これは5日前に投稿され、(除去は、ミスをフィルタリングする自動的スパム防止ではなかったことを意味する)49票と100以上の返事を集めました。

 今年、朝日新聞などの新聞社は、ニュースの誤報に対し、謝罪し措置を講じなければなりませんでした。もし、日本で英字新聞が誤報したと他の新聞社が嗅ぎ付けたら、どんな結果になるでしょうか?茨城県牛久市の警察署が、新聞で自分たちの捜査が誤報されたことに気付いた場合、どんな結果になるでしょうか。

 この誤報に関して、コラムや記事の責任者である、ジャパンタイムズの『コミュニティ』セクションのベン・スタビングズ編集者にメールを送りました。スタビングズさんから返事はなく、措置も講じられませんでした。

 私はこのメッセージのコピーを、間違えられた新聞と、その捜査を誤報された警察署に送ったので、ジャパンタイムズが故意に虚偽の報道を訂正なしで公開したままにしていることに気付いたのです。

 最新のコラム『 Just Be Cause 』《目に見える少数民族が警察の捜査網に捕まる》に応えて、私は、下記のように英語で投稿しようとしました。


ILLUSTRATION BY ADAM PASION
"Visible minorities are being caught in police dragnet"
有道出人アルドウ・デビト博士の記事の引用:

原文:
"When asked what he was doing, he said he was meeting friends. When asked his nationality, he mentioned his dual citizenship. Unfortunately, he carried no proof of that."
訳文:
何をやっていたのか尋ねられると、彼は、友達に会っていたと言った。国籍を尋ねられると、彼は自分の二重国籍に言及した。残念ながら、その証拠は持っていなかった。
 これら三つの文章に膨大な省略があります。有道アルドウ氏が自分のソースとして挙げている朝日新聞の記事によると、20歳フィリピン人の二重比日国籍等について言及していることは、このように通りで起こったことではなく、それ以降の文節で信じるようになるのです。警察署まで送り届けることと彼の国籍の発見の間の時間的順序は、この記事では反対なのです。

 有道アルドウ}氏も調達した日本経済新聞の記事によると、この情報は、後に警察署で通訳を介してのみ明らかになったものです。有道アルドウ}氏が彼の潔白を証明する基本的な事実を発見するために通訳を用いる必要があったとは言わないよう決心したことは、気になるところです。

 有道アルドウ}氏が調達した朝日の記事では―それを読んだことを意味している―最初に会ったとき、容疑者は、「友達会いに来ました」などと言って、「片言の日本語」を話した、とされています。片言の日本語であることと、日本語で国籍を明確に伝えることができないこととが、彼を逮捕せずに、自発的に警察署まで署員に同行するよう要求した理由でした。有道アルドウ}氏がこの大切な要点を省いたことは、気になります。

 有道アルドウ}氏が、言葉の問題に関するすべての詳細を省いた理由が、それが、望む談話を損うからだというのは、疑わしいことです。この可哀そうな仲間を拘留する警察の決定は、全く〈物理的な外観〉に基づいて【4回も述べられている】おり、基本的なコミュニケーション能力の低さとは関係がありません。まだ朝日新聞日本経済新聞の両新聞社の記事だけで、日テレ毎日新聞、および事通信社も同様なのに、有道アルドウ氏の記事では外国語という日本語の通話問題についての参考数は、0回です。一度も述べられていません。

 おそらく有道アルドウ氏は、論文の焦点のために『人種差別』のことで頭が一杯であるために、おそらく日本国籍を持っていないと警察が疑う他の理由があるなどということを考えることができなかったのです。彼は自分が日本国籍であることを警察に話せるほど、十分に日本語を話すことも理解することもできませんでした。

 統計的に珍しいことですが、法的に日本国籍を持ちながらわずかしか日本語が話せない、または完全に話せないことも、あります。警察は謝罪することをほのめかしているので、これからの遭遇する件のためにもその可能性を考慮に入れる必要があります。

 個人意見ですが、現場での、職務質問自体は、多分「何しているの?」「どこに住んでいるの?」とか聞いて「トモダチにアイにキタ」といった感じで、多分、この時点で、応答がちぐはくなので、警察署に任意同行を求めました。同署で、「どこの国の人」と日本語で聞いて、多分、日本語で「フィリピンとニホン」と応えています。二重国籍ということが思いつかなかったのでしょう。容姿と片言しか話せなかったことから、外国人だろうと思い込んで、旅券/在留カード不携帯罪で、現行犯逮捕ということでしょう。

 有道アルドウ氏が、日本語能力問題を省略して、その逆の時間配列によって、記事のこれらの重要な事実を歪めてしまったことは、残念なことです。

 さらに有道アルドウ氏は、この事件の他の記事を読んでいくつかの翻訳ミスをしたようです。

有道出人アルドウ・デビト博士の記事の引用:

原文:
"the cop … took him in for questioning — for five hours. Then they arrested him … according to a Nikkei report … and interrogated him for another seven."
訳文:
警官は…尋問のために彼を連れて行った―5時間。それから、彼らは…日経によると…彼を逮捕し、さらに7時間彼を尋問した。
 算数を行うと、彼は合計12時間、尋問したり質問したりされたということになります。

 しかし、日経や他の新聞を読むと、17時に(またより具体的には、17時05〜10分頃)逮捕し、尋問は7時間のみであったということです。つまり、有道アルドウ氏が日本語のを読み違えた、または翻訳し間違えた、ということです。おそらく『午後』ではなく5時間をプラス〔+〕追加7時間だと思ったようです。

 有道アルドウ氏が和文を読み違え、誤訳・誤報したことは、残念です。

 ジャパンタイムズのモットーは『 All the News Without Fear or Favor 』《厳正公正な報道》ですが、本当でしょうか。
Wow. I've just been totally censored by the Japan Times [Removed]

2014年7月3日木曜日

和風な苗字で呼ぶ白人

 ごく最近まで、私は綴りや発音を知っている人が殆どいない珍しい姓を名乗っていました。私は英語を話す人が、私が言った姓のスペルを間違え、名刺に書かれた姓を誤って発音することに慣れていました。

 このことは私を大変苛立たせますが、彼等が何故間違えるのかも理解していました。漢字表記の幾つかの名前がそうであるように、名前には不規則で慣習的な規則があり、名前のスペルと発音を前もって教えてもらえないと、英語のネイティブ・スピーカーであっても名前を正しく発音し、書くことが不可能なことがしばしばあります。

Andrew Havill
イギリス俳優のアンドリュー・ハヴィル
『マイケル・スミス』のようなありふれた名前以外に規則が存在しないのは、アメリカが英語以外の言語、時にはラテン文字以外の語源に由来した名前が多い移民の国だからです。彼等はアメリカに移住する際、英語にはない文字や音を英語形式に変換し、外国語の名前を英語に適応しなければなりません。時には名前を縮めたり、一般的な英語の名前に近い名前に変えたりします。私の先祖はおそらく中欧の出身です。彼等がイギリスに移住した際、綴りと発音を英国式にしました。そして私のイギリスの祖父母がアメリカに移住した際に発音と綴りをまた少し変更してより『現代アメリカ』式のスペルと発音に変えました。私は元の姓のスペル(英語にはない文字が使用されています)や発音を知りません。というのも元の姓の音が英語には存在しないからです。アメリカにいる私の親族はイギリス側の親戚が発音する名前は不自然だと思っています。そしてイギリスの親戚達は私達が馬鹿なアメリカ人になり、大西洋を渡った際に正しい発音を忘れてしまった、だから私達が発音する名前がおかしいと思っています。

 日本人になる際、日本人の赤ちゃんに命名する際に適用される規則に従っていれば、新しい戸籍謄本のために好きな名前を選ぶことが出来ます。平仮名と漢字を自由に混ぜることができますが、ラテン文字は使用できません。

 私はアメリカ人にとって移住し、名前を修正・変更することは、今やアメリカの伝統だと思っていたので、日本の名前『イノウエ』を選ぶことに抵抗はありませんでした。

井上は集まれの中で、いっぱい居る
今のところ、わたしは日本でこの名前を名乗ることを心から楽しんでいます。私が電話やホテルやレストランの従業員に名前と言うと、綴りや読み方を訊いてくる人は誰もいません。そして誰ひとりもう少しゆっくり言ってもらえますかと訊き返してきませんし、名前を忘れる人もいません。ありふれた名前は仕事でも好都合です。長くて珍しい名前が書かれた名刺を渡されると、私は彼等の名前を読み間違えて怒らせはしないかと心配になります。

 私の新しい名字が日本中どこでも見られるのは奇妙で刺激的です。在外邦人でも、病院でもレストランでも小さなお店でも、大企業や英雄、有名な歴史的人物、政治家(日本人とアメリカ人)、同僚(一人以上)、著名人、AV女優、犯罪者に至るまで、あらゆるところにこの名前が存在します。私の前の姓は余りにも珍しく、親戚以外で同じ姓を持つ人に会ったことがありませんでした。同じ姓の人間がいるかグーグルで調べた事があります(同じ姓を持つ人間が世界中に250人存在し、その70%以上がイギリスにいるようです)。

 ただし、ありふれた名前にも欠点はあります。昔の名前はとても珍しかったので、しばしばインターネットのユーザーIDとして使うことが出来ました。というのもこの名前をユーザーIDに選んだ人が誰もいなかったからです。『イノウエ』という名前をハンドルネームに使用することは英語サイトであっても不可能です。このため、私は今でも昔の名前を便利な『一意の識別名』としてサイト上の登録に使用しています。

2014年6月19日木曜日

良い温泉に入るためにタトゥーを消さなければ

入墨及び暴力団関係の方はご入浴できません。
15年前日本では、銭湯やカプセルホテル、ビジネスホテルなどのお断りの張り紙には「入れ墨」という言葉しか使われておらず、親切にも、上半身裸で雷神の絵を背中にでかでかと描いた肉付きの良いやくざの漫画キャラまで添えられており、メッセージが誰に向けられたものであるかは明白でした。『入れ墨』のなかった私は、そうした場所に入るのに何の問題もありませんでした。『タトゥー』とは、ニュアンス的には、長編漫画と比べて4コマ漫画程度のものだったのです。

 ところが今では、私の通うジムの張り紙と会員契約書にはそんな親切なイラストなどなく、次のようなリストが記載されているのです。『入れ墨、タトゥー、ボディーアート等』。そしてその後には難しい専門用語で、入れ墨やステッカータイプのタトゥー、さらにはボディピアスまで禁止とされ、違反した場合には払い戻しなしの契約解除に処すると書かれています。プールを使わなくても、通常は服の下に隠されていて見えないとしても、変わりはありません。

 タトゥーの条項を追加したのは、うまく外国人を締め出そうという意図があってのことではありません。この規制にひっかかるのは外国人よりも日本の若者たちのほうです。日本でタトゥーを除去しようとしたら、いくらかかるのでしょうか?

 日本では、レーザーによるタトゥーの除去は通常1センチ四方につき1回15000円弱かかります(当時2007年)。使用された色にもよりますが、4~5回ほど通わなければなりません。他にも、痛みを抑えるクリーム(通常は、2500円以下)の代金を請求されることがあります。このクリームは1回購入するだけで良く、家に持ち帰って冷蔵庫で保存します。患者は、施術か時2前に施術部分に自分でクリームを塗ります。整形外科医として、施術の度ごとに、開始前にタトゥーの写真を撮る場合もあります。

レーザーとはどんなものでしょう?

使用されるYAGヤグレーザーは、それぞれ別の波長のビームを数本同時に照射します。レーザーは歯科医の使うドリルに似ており、250ミリ秒の速さで照射します。照射の度にパチッというアーク放電のような大きな音をたてます。ブレーカーが落ちる直前に電気のコードがショートする時の音にも似ています。

院内はどんな感じですか?

患者、医者、看護師は全員、施術中はファンキーなオレンジ色の安全グラスを装着します。治療はすべて外来で行われます。歯医者へ行くような雰囲気でしょうか。看護師は通常女性で、かわいくて、美人です。美容外科ですからね。医者は通常は男性で、こちらも見かけは悪くありません。歯医者の看護師のように、ここでの看護師の責務は、患者が急に動いたりして医者が患者の目をレーザーで切り付けないよう患者を押さえつけていることです。

痛みはありますか?

鎮痛クリームを塗っていても、照射されると食用油がはねて肌に飛び散った時のような痛みを感じます。タトゥーを入れる場合は、体のどこに入れるかによって痛みの度合いは違ってきます(肉付きの良い胸やお尻などは痛みは少なく、肉が薄く骨に近い部分は痛みが強いです)。しかし、除去する場合は場所は関係なく痛みは同じ程度です。我慢できる程度の痛みです。

施術時間はどれくらいですか?

ストップウォッチ
1cm² = 30s @ ¥15,000
1センチ四方に30秒くらいですので、広範囲のタトゥーでもそれほど時間はかかりません。次回の施術は、3週間以上間を開けなければなりません。これをタトゥーが消えるまで繰り返します。日本の整形外科医はクレジットカードを扱っておりますが、保険は対象外になります。

 施術当日の夜は、患部がかなり敏感になっており、傷口を扱うのと同様、清潔に保たなければなりません。1週間ほどは、消毒液を患部に塗ってガーゼで保護してください。傷跡が残ることはありません。

タトゥーは完全に除去できますか?

それは人それぞれです。タトゥーは、異なるレーザーの異なる波長にインクの色素が反応することによって除去されます。波長がインクと合えば、レーザーはその色素を皮膚の下で粉砕し、それを白血球が消化してくれます。施術後に膿が出るのは、体の免疫系がインクを飲み込んでいる証拠です。

 問題は、波長の数が少ないこと、波長が全てのインクと反応を起こさないこと、そしてタトゥーのインクに使用される成分が標準化されていないため、アーティストによって異なることです。

インクは黒でしょうか?

だとしたら、除去は一番簡単です。黒は全ての光を吸収するので、レーザーも全て吸収してくれます。黒い帯や黒で書かれた漢字などでしたら、完全に除去することは可能です。

インクは青または赤でしょうか?

かなり難しいでしょう。何度も施術に通わなければならないと思ってください。しかし、アーティストがよほどおかしなインクを使ったのでない限り、いずれは消すことができるでしょう。

インクは白または黄色ですか?

残念ですが除去は無理でしょう。また、チューブから搾り出してそのまま使用したインクではなく、色を2種類以上混ぜ合わせた場合もこれにあてはまります。最新技術を取り入れたレーザーでも、明るい色を除去するのはできたとしてもかなり難しいのです。
レーザーは、天然色素を含め全ての色素に反応するため、最後の施術を終えた後一時的に患部はアルビノのような白い肌に変わります。けれども、数ヵ月ほどで天然の色素が戻ってきて、肌の色は元に戻るでしょう。

2014年3月31日月曜日

オーバーステイで悩んでいる日本国籍を有する私

私は、仕事でよく渡航します。私はよく渡航をするので、日本のパスポートを所持するというアイデアは魅力的でした。日本をベースにする場合、米国のパスポートよりも移動が楽になるからです。たとえば、インドへのビザは、日本在住の非日本人の場合、手続きに時間がかかりますし、アメリカ人は中国への入国が日本人よりも困難です。日本のパスポートがあれば、キューバで休暇を過ごして、葉巻やラムを楽しむことができます。私には仕事の関係で日本に帰化した中国人の友人達がいます。彼らは、中国のパスポートでは仕事での移動がとても難しいと言います。

 日本国籍の資格の視点から言えば、私の最大の懸念は『継続した年数の居住』として数えるには多くの日数を日本国外で過ごしていることでした。合計100日以上を継続で、または150日以上を日本国外で過ごしており、これは『居住年数』に入りません。同様に、出張での米国への滞在も合計で1ヵ月を超えないよう、注意してカレンダーを確認していました。でなければ、米国の課税の2555という書類海外所得役務控除の免除を失ってしまうからです。米国市民は、毎年どこに居住しようとも書類提出をして、場合によっては納税をしなければなりません。

 言うまでもなく、私は帰化に必要な居留の要件は満たしています。

 数ヵ月待った後、私が思いもしなかった時期に帰化の許可に関する電話をもらいました。私は、法務省とのやり取りをしていて、もう少し時間がかかるだろうと思っていました。私が定期的に法務省とやり取りをしていた理由は、帰化が許可されるまで、生活に何らかの変化(仕事が変った、結婚、離婚、出生、死亡など)があった場合、または日本を出入国する場合、地元の役所およびケースワーカーに連絡をとることになっているからです。私は頻繁に日本を出入国しているので、電話をしやすいよう連絡先に星印をつけて、私を担当してくれている公務員の小林さんに連絡をしていました。会話はいつもこのような内容です。

「国籍課ですか?はい、小林さんをお願いします。」
「ケース番号をお願いします。」
「1279番です。」
「少々お待ちください。(待ち受けの音楽)国籍課の小林です。」 井上さんですね?」
「小林さん、こんにちは。以前お話しした通り、日本に戻りました。予定通りです。」
「おかえりなさい!フライトの詳細も同じですか?」
「はい、同じです。実は、来月また出国します。」
「わかりました。出国する前にまたお電話ください。」
「わかりました。ところで、私の申請はどのようになっていますか?」
「まだ何も聞いていません。もし何かありましたら、何か連絡があると思いますので、ご心配なく。何かありましたら、すぐこちらから連絡します。」
「ありがとうございます!」

 連絡を待っている間、成田と羽田での乗換を含む数カ国への移動を予約しました。出張に出かける1週間前、法務局から連絡があったと小林さんから電話がきました。

「良いお知らせですよ!申請が承認されました!日本人になりましたよ!いつ帰化者の身分証明書を受け取りにこられますか?」
「ええっと、出張から戻るまでの数週間、私の帰化を待っていただくことはできますか?」
「え?ええ… 申し訳ないのですが、だめです。既に決まったことなので。」
「日本のパスポートを取るには、どれくらいかかりますか?」
「至急ですか?恐らく、一週間くらいかかります。ただ日本のパスポートを取るには、まず国籍謄本が必要です。パスポートは、帰化者の身分証明書を元にして地元の区役所で作ることになりますが、急いでも10から15日はかかります。」
「日本のパスポートを手に入れるまで、米国のパスポートで渡航することはできますか?」
「ちょっとわかりませんね。私は入国管理ではないのですし。日本国籍関連のことしかやってないので。あなたの渡航の頻度を考えますと、できるだけ早くに日本のパスポートを取得することをお薦めします。」

 そこで私は、法務局へ帰化者の身分証明書を取りに行きました。月に一度位で授与セレモニーをしているようでしたが、急いでいたのでセレモニーはなしで、受け取りました。色々と助けてくださった小林さんにはお礼を言いました。小林さんは満面の笑みで「おめでとうございます」と言って頭を下げ、彼が書類の手続きをした初めてのアメリカ人だと言っていました。正式な手続きを済ませて、私はすぐに閉まってしまう前に区役所へ行き、元となる書類を使って、日本人となる手続きをすべて行いました。私の外国人登録を削除し、外国人登録証明書ARCを返還し、市民にのみ発行されるため国籍の証明となる住民票、そして関連する住基カードを作りました。問題は、私の戸籍謄本でした。私は帰化申請の本籍を私の家族の登録のある大阪市にしたいと思っていました。私が子どもの頃過ごした場所であり、私が妻と出会った場所であり、妻の家族の登録がある。大阪市は私にとって、日本の原点として特別な意味があったからです。本籍は、実際に住んでいる場所に関係なく、日本国内で任意の合法な住所(番地レベルまで)を指定することができます。問題は、もし本籍地が実際に住んでいる場所と異なる場合、本籍に対する一切の要請、作成、変更は、地元の役所から郵便で転送しなければなりません。ですから、至急の手続きが不可能です。至急に戸籍を入れることができないということは、パスポートを至急で作ることができません。私は残りの一日、地元の警察署へ行き、運転免許証の名前を合法な漢字の名前に変更し、デジタルで ICチップ内の本籍を米国から『大阪府大阪市』に変更しました。プライバシー保護のため、本籍は日本の免許証へデジタル的に暗号化されて二つのPIN暗証番号として保存されるだけで、カードに印刷されることはありません。

 次の週、空港へ行き、米国のパスポートで出国できるかを確認しました。私は自動化ゲートシステムに登録し、つまり私の『外国人在留資格:永住者』-とこれに関連する、在留資格を失わずに出入国を許可する数次再入国許可、そして私の指紋をコンピューターシステムに登録しました。入国管理官が行う唯一の手続きは外国人再入国のための出入国記録カードの処理と、 もしパスポートに実際のスタンプが必要な場合にはお願いすれば、自動化ゲートユーザーにも任意で押してくれます。

米国のパスポートと指紋をスキャンし、何も無いことを祈りました。問題ありませんでした。私はゲートを抜けました。

「ああ、これは便利だ」 と私は思いました。

私の永住者向けの数次再入国許可は、自動化ゲートで登録され、今でも有効です。恐らく、期限切れとなるまで記録されているでしょう。もちろん、更新できないことは知っていましたが、日本のパスポートの発行を待つ間の渡航の問題を解決する助けとなりました。出張から戻ってきてから申請すればよいのです。

 しかし、そんなに簡単には行かないことを知っておくべきでした。成田に戻り、自動化ゲートを再び通過しました。コンピューターは私を認識できないと表示しました。「再入力許可のQRコードをスキャンしてください」大変です。 そこで、最良の結果を祈って、スキャンしました。次のエラーメッセージは「係官に助けを借りてください」というものでした。

 機械の操作法がわからない人がいるのかと、自動的に呼ばれた係官がやって来ました。彼は手続きを手伝ってくれました。しかし同じ結果でした。彼は私のパスポートのすべてのページを確認し、もう一度試してくださいと言いました。同じエラーです。彼は管理画面にパスワードを入力し、今度は再入国カードの裏にあるIDのバーコードをスキャンするように私に言いました。しかし、またエラーです。ところで、私はこのバーコードの存在を今まで知りませんでした。

「そこでお待ちください。」

 彼は外交官/航空会社乗務員の列の横にあるベンチを指差しました。ベンチの隣には開いているオフィスがありました。彼は私のパスポートを持ってオフィスへ入り、他のパスポートスキャナーが接続されているコンピューターの後ろにまわりました。私は彼がスキャンする間、画面を覗き込む彼の表情を見ていました。彼が見ているものが彼に警戒心をかき立てるものなのか、(テロリスト、スパイ、指名手配中の犯罪者)それとも不快にさせるものなのか(ビザ違反、偽パスポートなど)判断しようと試みました。幸いそれは、困惑と狼狽の表情でした。彼は机にある電話を取って、セカンドオピニオンを得るために電話をしました。もう一人係官がやって来て、パスポートのすべてのページを確認し、スキャンをし、キーボードのいくつかのキーを押しました。すると二人は、画面のいくつかの場所を指差し、話し合いをして、机の下からマニュアルを出すと、インデックスを見て、ページを読み、ページの様々な箇所を指差して話し合いをしています。10分ほどで係官が戻ってきました。

「あなたは日本国籍をお持ちですか?」
「はい。」
「ああ、やっぱりそうなんですか!」それですべての説明がつきました。

「あなたは本来日本のパスポートを使うことになっています。見せていただけますか?」

 私は持っていないので、帰化の時点からのすべての状況を説明しました。

「ううん。どうしたら良いか、検討してみましょう。日本の運転免許証はお持ちですか?」

 私のような変ったケースの場合には、入国に日本の運転免許証が使えるかの様でした。しかし、です!私は運転免許証を持っていますし、更新もしましたから、日本人であることは証明できますが、家の車に置いてきてしまいました!そこで私は、自分の住基カードを渡しました。これはデジタルICチップに合法な日本のIDが入っているので、日本国籍を証明できます。しかし彼は私に謝ってきました。このカードは有効なIDなのですが、入管のコンピューターがまだ更新されておらず、このカードを扱うことができないとのことでした。

 彼らは私を通してくれました、(本来は罰金を課されるところでしたが、私は何も言われませんでした)しかし「なるべく早く日本のパスポートを取得してください」と警告されました。

「また渡航しなければならないのに、パスポートがない場合にはどうなりますか?」
「また渡航するのですか?」
「はい、5時間後に。」

 係官の目がまん丸くなりました。「ちょっと待ってください。」

 彼は、オフィスにいる他の係員と再び協議をしています。私は心配になりました。なぜなら、もう一人の係官は、手続きマニュアルを再びみながら頭を横に振っていたからです。10分後、彼は戻ってきました。

「通常の外国人の列を通ってください。何があっても、再入国の列や、日本人の列を使わないように。通常の外国人向けの出入国カードを使用してください。外国人居住者の再入国のカードは使わないように。」
「入国管理官が、私の米国のパスポートの永住権や、再入国のスタンプをみた場合、どうなりますか?」
「よくわかりません。」
「わからないってどういうことですか?!あなたは入国管理官じゃないですか!私は信頼できる答えが欲しいんです!」と考える私がいました。

 しかし一方で、特別に臨機応変な対応に深く感謝しながら、入管で足止めされて、この人達のIDバッジを覚えておこうとも思いました。(そうすればもしすべてが大問題になった時に、彼らを指差して責任を取ってもらえるからです)

 入国管理官は私の米国のパスポートに外国人出入国 (再入国ではない) カードを留め付け、搭乗部分を破り、上陸部分を残して、日本に入国した外国人観光客同様にパスポートにスタンプを押しました。

 こうして成田で入国を通過して、シャトルで羽田に向かいました。そこでは外国人(マニュアル、非自動化の)列を通りました。そこでの係官はカードの最後の上陸部分をパスポートから外し、再びスタンプを押しました。問題もありませんでした。質問もされませんでした。

日本に戻って来ると、成田の係官に言われた通り、外国人向けの出国カードを記入しましたが、私は通常の観光客向けの出国カードをみたことがなかったので、少し緊張しました。そこには再入国用のカードにはない、「日本訪問の目的は何ですか?」、「日本に何日間滞在する予定ですか?」等の質問があり、嘘はつきたくなかったので、それらのセクションをすべて回答せずにおきました。入管は私の写真を撮り、デジタルで指紋も採取しました。問題もありませんでした。私が回答しなかった部分について、係官は何も質問をしませんでした。写真もデジタルの指紋も問題はありませんでした。そのように手続きをされ、問題も、質問もなかったのです。私の米国のパスポートには、使っていない約三ヵ月の一時的上陸許可のある外国人用入国カードがまだ残っています。これは、今まで観光客や訪問者として日本にいたことのない私にとって愉快なことです。今まで一度もそのような経験がないのですから。90年代初頭に最初に訪れたときから、労働ビザで滞在していました。このステッカー/スタンプは、前のページにある再入国許可と永住権のステッカーよりも後(このステッカーによるとまだ有効です) の日付が押されています。私は遂に、観光で日本にやって来たのです。永住権を取得し、今では合法に日本に在住した後のことです。

 どうして入国管理官が私のおかしなスタンプのパスポートを見逃しているのか不思議に思っている方がいるとしたら、理由はこういうことです。QRコードがついていて、データベースに記録されている再入国許可は、『キャンセル』または『無効』というスタンプがなくても、デジタル的にキャンセルされていているのです。入管の観点から言えば、私は永住権を持っているけれども、私の数次再入国許可を早期にキャンセルすることにして、国を離れ、何かの理由(税金とか?)で永住権を実質的にキャンセルしたけれど、米国からの観光客として再訪したということになっているのです。ですからパスポートは、少し普通とは違う状態ではあっても、厳密には『規則違反』ではないのです。多くの永住権所持者は、もう一度取得するのは大変なので、放棄することはありません。

 渡航が一段落して、やっと数ヵ月後に日本の書類をきちっと手に入れることになった時、小林さんに電話をして、彼が入管に関してはあまり知らないと言っているにも関わらず、どうなっているのか調べてくれないかとお願いをしました。

 彼は数週間後に電話でこう説明してくれました。基本的に何が起きたかと言うと、私は既に日本人で、もう申請することがないので、私が海外にいる間、法務省が入管に連絡をとって、デジタル的に私の再入国許可をキャンセルしたのだと話してくれました。本来であれば、私が帰化したと同時にすぐに私の再入国許可をデジタル的にキャンセルするべきで、そうすれば自動化ゲートを使って外国のパスポートで、人間の目によるパスポートチェックを経ずに出国することはできなかったわけです。

小林さんは、日本の入管で米国のパスポートを二度と使わないように警告してくれました。私は米国市民であり、現在日本の観光客として記録(指紋バイオメトリックスを含むデジタルデータで)されていて、合法に認められている滞在期間を越えてしまっているからです。

「将来問題になるでしょうか?罰金や何かで?」私は尋ねました。

「たぶん問題にはなりません。最初の間違いを犯したのは法務省と入管なので。あなたの状況はとても変っています。提示したすべての書類は有効で、誠意を持って提示されました。しかし、担当役所間の問題となり、空港の入管で長い一日を過ごすことになるでしょう。あなたにフライトに遅れて欲しくないですから!」と彼は笑いました。

「ということは、指紋チェックのせいで、日本人として自動化ゲートを使えないということですか?」
「いいえ、それは問題にはなりません。データベースは、法的なプライバシー保護の理由から、繋がっていませんから。」

 ですから、日本人である私は、理屈をつべこべ言う必要なく、合法に日本に滞在することができるのですが、現在放棄手続きの最中ですがアメリカ人である私は現在厳密にはオーバーステイであることになっています。

ところで、今は日本のパスポートを持っています。

2014年2月4日火曜日

ハワイ州は、日本国の48番目の都道府県じゃないか?

日本には、47の都道府県があります。大きさはさまざまで、アメリカのメイン州よりも大きなもの 【例:北海道】から、米ロードアイランド州よりも小さなもの【例:東京都、神奈川県、沖縄県、大阪府、香川県】までです。ほとんどは、米ニュージャージー州とコネチカット州のあいだくらいの大きさです。

 最後に県になったのは沖縄で、昭和47年にアメリカから日本へ返還されました。沖縄はよくハワイと比較されます。というのも、ハワイも最後にアメリカ領になった島だからです。ハワイと沖縄には共通点がたくさんあります。

 文化、方言、先住民族、食事が、〔本土〕とはおおきく異なること。日本では、本土とは、九州、本州、四国、北海道です。

 本土からひじょうに遠いため、ほとんどの人々が飛行機に乗っていくこと。

 異国情緒のある土地として、国内からの旅行者にも人気があること。

 ともに、大規模なアメリカ軍基地をかかえていること。

 ここまでくれば、那覇市とホノルルが姉妹都市であることにも納得だと思います。むしろ不思議なのは、首都である東京の姉妹都市がニューヨーク市であり、おなじく首都であるワシントンDCではないということでしょう。

 ハワイには、一度行ったことがあります。僕の経験からいえば、ハワイは日本の48番目の県でもおかしくありません。なぜなら、滞在中の72時間、僕の話したこと、読んだもの、一緒にいた人はみんな、日本人か、日本語を話すアメリカ人だったからです。

 2000年、僕の勤める日本の会社では、例にもれず日本的な恒例行事が行われることになりました。海外への社員旅行です。旅行代理店は、このような企業による士気向上のための旅行を見越して、すべてをパッケージ化しています。なので、会社はほとんど何もしなくていいのです。料金を払いさえすれば、あとは代理店がすべてを用意してくれます。パッケージを選べば、細かなことはすべて責任をもって手配してくれるのです。おかげで英語の苦手な社員も、アメリカ人の社員も、旅行を楽めるというわけです。

 タイムテーブルはすべて、朝から夜まで、最終日までの3、4日間でした。そのうち2日間は週末です。いかにも仕事人間の日本人らしいバケーションでしょう。いやはや。ことごとく前もって決められています。一人で火山を見にいきたいですって?そんなことはお忘れください。強制ショッピングをご用意しておりますよ、旅行者さま。といった具合です。

 飛行機を降りた数分後から、プロフェッショナルなツアーガイドが、日本語だけを話し、会社の旗を高くかかげ、搭乗口からチャーターされたバスへと案内してくれます。そこから、ショッピングにも、レストランにも、ホテルにも、夜遊びにも、ビーチにも、観光スポットにも、そして最後にはふたたび飛行機にまで、案内してくれます。どこへ行っても、店員は日本語を話すし、看板まで日本語です。これは、どのデパートも、そのほかの場所も、旅行代理店が事前に入念なチェックをしているからです。そして店側も、おなじ旅行会社のバスに乗った日本人が、朝から晩までひっきりなしにやってくるのに慣れているからです。

パッケージ・ツアーというものは、たいてい、料金的にお得です。もしすべての飛行機代、ホテル代、文化を味わう旅、バス代などアラカルトで好きに組むと、高くつくでしょう。これはおそらく補助金によるものと思われます。大きな旅行代理店が、旅行客をつぎつぎと商業地域に送る見返りとして受けとっているものでしょう。かつては、これを理由に、日本人以外には追加料金が課せられることもありました。外国人は、ツアー中に散りばめられた金になるショッピング休憩を避けるからという理論です。

 日本人が旅行で大金をはたくようになったのは、80年代後半くらいからです。20世紀末に、日本にある高級輸入品が、アメリカでの価格とくらべて大幅な値上がりを始めました。場合によっては2倍、3倍ものもありました。そのため、旅行の理由が『ショッピング』だというのも、あながちおかしなことではなくなったのです。現在でも、高級輸入品はアメリカにくらべて高いままです。しかし、輸入にかかる費用を考えても、こうは高くなりません。

 妻にハワイに行きたいか聞いてみました。彼女は社員旅行でバリに行ったことがあります。彼女は、典型的な日本人からはかけ離れていますので、ハワイは嫌だと言いました。だから僕のようなガイジンさんと結婚したのでしょうが。

ヌサ ドゥア ビーチ
バリは本当に地獄か?
「バリ旅行もイヤだった。無理やりビーチへ連れていかれたの。蒸しあついのが大嫌いなのに。同僚がいるのもイヤだったわ。一緒にいなくちゃいけなくて、楽しんでいるフリまでしないといけないの。仕事は仕事。バケーションはじぶんの時間であるべきだわ。なんで仕事場で会わなきゃいけない人たちと、休日まで一緒に過ごさなきゃいけないわけ?」

 おそらく、彼女には今の主婦の仕事がぴったりだと思われます。同僚や顧客とうまくやっていくことは、まちがっても彼女の得意分野ではありません。それに、バカげたものは甘んじて受け入れないのです。彼女の辞書では、ほとんど誰もが愚かモノです。その中には、僕も入っているかもしれません。

飛行機から降りるとき


日本人の国際線乗務員が、お別れのあいさつをしてくれるでしょう。もしあなたがアジア人に見えれば、日本人と見なされて、

「お疲れさまでした」

などと日本語のあいさつをしてくれるでしょう。もしアジア人に見えなければ、日本人ではないので、日本語よりも国際言語とイワれている英語のほうがいいだろうということで、

”Thank you for flying!”

とあいさつしてくれます。僕の記憶が正しければ、ハワイのときにはちょっとアレンジされていて、日本語でも英語でも「マハロありがとう」が追加されます。それは、ハワイ語でありがとうということです。

 飛行機から降りるとき、フライトアテンダントは僕のコーカソイド系の顔を見るなり、英語であいさつをしてくれました。

”Mahalo!オオキニ Thank you very much!”

 それが僕の聞いた最後の英語でした。ハワイという、アメリカの州で。

ホテルへのバス


僕たちのガイドはコーカサス系で、日本のガイドのユニフォームを着て、税関の外で待っていました。お決まりの赤い旗と、僕たちの会社名が書かれた看板を持っていました。その姿はまるで、お母さんアヒルが子供のアヒルたちを集めているようです。僕たちはバスに乗り、出発しました。

 ガイドさんは、ぜんまい人形のように、バスの正面近くの通路に立つと、マイクを手にして、ガイドを始めました。ふと彼女が僕を見ました。グループで唯一の外国人です。すると彼女は、口をすこし開けて固まってしまいました。これの意味は「どうやって日本人じゃない人に日本語を話せっていうの?」です。前にも目にしたことがある表情です。しかし、いつもだったらサービス業界にいるネイティブの日本人が見せる表情です。

 僕は日本語で言いました。日本語なら問題なく理解できると。彼女はほっとしたようでしたが、はじめの数分間は、僕の目を見て、ほんとうに日本語が分かっているのか確かめている様子でした。

 彼女のガイドは流ちょうなだけでなく、タイミングも完ぺきでした。彼女が話題にしている光景が、魔法のように右から左からあらわれるのです。言葉にした数秒後に、です。話を止めるでもなく、早めるでもなく、遅くすることもありません。間違いなく、彼女はこのルートを何百回とこなしています。ここで、彼女が僕のことを心配した理由がわかりました。もし日本語にくわえて英語、もしくは英語だけのガイドをしようものなら、タイミングがずれて、ガイドがスムーズにいかなくなってしまうのでしょう。

強制ショッピング

ゴルフクラブの販売
ヤスイ!ヤスイ!イラッシャイマセ!
ここまでスーツケースを開けることさえできませんでしたが、それが叶ったのは初めのショッピングエリアについたときです。そこは屋内のショッピングモールでしたが、名前はなく、テーマ性も感じられませんでした。しかも、客はみんな日本人なのです。ここはおそらく『招待客限定』のショッピングモールで、地元住民やアメリカ人旅行客は入店を許されていないか、入り方すら知らないのでしょう。この手の『旅行客限定』商業施設は中国で見たことがありますが、アメリカにあるとは驚きでした。

 店員たちは、右から左から僕たちをはやしたてます。決まり文句は「ヤスイ!」と「イラッシャイマセ!」で、ガイドさんの日本語とくらべるとひどいものです。ほとんどはワンフレーズの日本語です。ガイドさんも休むことをしません。販売交渉の通訳を買って出ているのです。値段はすべて円とドル両方で表記されていました。

 僕は、すこし時差ぼけがあった (東京~ハワイ間で19時間差があるんです) ので、買い物をやめて、ベンチに座り、ガイドさんがみんなを連れてバスへ戻るのを待っていました。

 同僚の一人、健二さんは、すでにツーリスト魂を燃やしていて、ガイドブックにあるすべてのフレーズ
  • “How much?”いくらですか?
  • “Can you make it cheaper?”安くできますか?
  • “Do you have a blue one?”青いのはありますか?
などを、ショッピングモールにあるすべての店舗で実践していました。

ボイズ・ナイト・アウト(オトコたちの夜遊び)

僕たちはほとんどホテルでは休みませんでした。というのも、健二が部屋に来て、言うのです。日本語の話せるコンシェルジュがロビーにいて、彼の付き添いで『オトコたちの夜遊び』ツアーが企画されている。日本人に『アメリカの夜遊び』を紹介するツアーらしい、と。

 なんと健二はすでに僕の分のチケットを買ってしまっていたのです。

「英語が話せて、アメリカの文化を知っている人の助けが必要なんだ!」

とのこと。どうにも、そんなものは必要ない気がしました。ホテルのテレビでさえ、前もって日本語訳されたホテルチャンネルにセットされていたし、衛星放送は、日本の放送をよく受信していました。目黒の家にあるラビットイヤーアンテナよりもよっぽど優秀です。

 しかし気持ちとは裏腹に、ついていくことに。いつも思うのですが、日本人はアメリカに対して型にはまった印象を抱いています。それは日本やアメリカの大げさなテレビドラマや映画の影響があるのでしょう。ひじょうに気になるのですが、アメリカ人のバケーションは、日本人の目にはどう映っているでしょうか。

 ともかく、一緒に行くことなったのは、同僚の日本人5人のグループです。健二は僕にパンフレットを手わたすと、ガイドの運転するレンタカーが、午後9時15分ぴったりにホテルを出発すると言いました。

 このパンフレットは、日本人に植えつけられたアメリカへのイメージを払拭する役には立ちません。アメリカの『オトコたちの夜遊び』、前もって準備されている日本語のパンフレットの内容は、
  • アメリカン食べ放題、サーフ&ターフ
  • 裸のアメリカ人、巨乳の金髪美女
  • 巨大で危険なアメリカの銃

午後10時:ステーキとロブスター

ツアーの始めは食事でした。アメリカ人がいかに食べるのか体験しにいこうというわけです。おおくのアメリカ人は、ほかの国のちまちまとした少ない量の料理をバカにします。しかし日本人は逆です。暴飲暴食と『質より量』のアメリカンフードを指さして大笑いです。スターバックスが日本に上陸したとき、『ヴェンティ』のVサイズはメニューにありませんでしたが『ショート』サイズはありました。とある人気コメディで、二人のキャラクターがアメリカン・レストランで食事をしていると、次から次に料理が運ばれてきて、だんだんバカげたサイズになっていくというのがあります。ともかく、このネタの落ちは『ポテトのL』というツッコミです。アメリカのフレンチフライには、4人家族が一週間生きていくのに十分なほどのカロリーがあるのです。僕の妻は、アメリカの多すぎる食事をやり玉にあげては、このネタの話をします。

最近では、日本もアメリカのスーパーサイズ現象に侵食されつつあります。日本のマクドナルドは、メガマック 〔4枚のパテ〕 やダブル2倍クォーター4分の1パウンダーポンドを売りだしました。ダブル・クォーターなら、いっそ『ハーフ0.5ポンド』と呼ぶべきでは?ダメです。なぜならほとんどの日本人は英語がわからないか、英国式の測量法に疎いからです。この脂肪やたんぱく質によって、日本の若者たちの身長は、今までと比べておおきく伸びるかもしれません。親世代の日本人は、つつましい食生活を送っていますからね。

 ただ残念なことに、アメリカ人もそうなのですが、いま言った日本の若者たちは、縦に伸びるよりもはやく横に大きくなってしまうのです。

イメージです。食べ放題のS&Tは、こんなに美味しくなかった
暴食は罪だと知りながら、お金を払ってアメリカの食事をすることになったのです。もう夢中で食べました。夜遊びの最初の目的地はレストランで、売りは食べ放題のサーフ&ターフ、つまりロブスターとステーキです。ロブスターとステーキが選ばれたのは、アメリカらしさを強調するためでしょう。ロブスターもステーキも、普通は少ない量でも高価ですが、アメリカではびっくりするような安さ、もしくは量で提供されるのです。メインランド州にある、サーフ&ターフ食べ放題のレストランを見たことはありますか? 僕もありません。狙いどおり、このレストランの客は日本人ばっかりのようでした。

 僕は二皿半のサーフ&ターフを食べました。ステーキの質はイマイチ、筋と脂が多すぎます。ロブスターはまずまずでした、やや小さめでしたが。ほかのものを食べるには、今の皿を食べきらなければなりません。付けあわせのマッシュポテトや野菜もあります。すぐにお腹いっぱいになってしまいます。

 3皿目はもうムリでした。お腹がパンパンです。健二は5皿半も平らげていました。しかも、なんともおいしそうに食べていました。まるで、アメリカの死刑囚の、最後の晩餐のようです。制限時間がなければ、健二は6皿目も食べきったのではないでしょうか。とにかく時間切れで、次の目的地へ向かうことになりました。

 そのレストランは基本的にビュッフェ形式で、テーブルには担当ウェイターがいたわけでもなく、90分の食べ放題は前払い制です。にもかかわらず、ウェイターが各テーブルに「チップは通常20%です」と告げてまわっているのです。日本にチップはありません。しかもそれを強いるとは。ましてや20%をすすめるとは。サービスといったって、マクドナルドよりもすこしマシだったくらい(スタッフが一度だけ水を注いでくれました)で、なんともとっぴな要求です。僕は同僚たちに、10%でも大丈夫、20%なんて気前が良すぎる、と言いました。ですが彼らはウェイターを傷つけたくなかったのか、結局25%を置いていきました。

 記念写真では、僕らは両手にフォークを持ち、片方にはロブスター、もう片方にはステーキです。思い出の一枚が撮れました。

午前0時:ストリッパー


イメージです。本当のは、美しくなかった
二番目の目的地へ向かう車の中、運転手はツアーガイドと、旅に役立つポイントを紹介してくれました。もちろん日本語です。ホノルルの、ほかの面白いスポットも教えてくれました。

 二番目の目的地は「ジェントルマンズ・クラブ」でした。ジェントルマンズクラブというのはあだ名で、ストリップクラブ業界が、80年代後半にみずから名乗りはじめたのです。上品に聞こえるように。スタッフの着ているタキシードはレンタルでしわしわ (ドライクリーニングが必要ですね)、さらにステージやテーブルはなんとも悪趣味です。それでいてスタッフは、エントランス料金が高いのは当然といった様子です。問題なのはスタッフです。彼らのサービスにくらべれば、しわしわのタキシードのほうがまだマシです。きっと上質なサービスに関しては、上っ面しか教えられていないのでしょう。立ち振る舞いこそ一流に見えますが、サービスの本当の意味がわかっていません。大切なのは『押し売り』ではなく『お客様第一』でしょう。もはや、タキシードと派手なステージが光るさまは『豚に真珠猫に小判』としか思えませんでした。

 このツアーは前払い制のはずです。しかし10代のぶっきらぼうなドアマンは、日本人だけには入場料を要求していました。なんという差別でしょう。そのドアマンは、僕が日本人グループの一員とは気付かず、なにも要求してきませんでした。それ以来、いかに多くの日本人ハワイ観光客がぼったくられているのかと考えると、切なくなってしまいます。

 そのクラブでは、最低でも二杯の高すぎる飲みものを注文しないといけません。時差ぼけにくわえて、いかにも旅行客向けの真っ青なお酒(薄めかと思いきや、とても強い)を二杯飲み、しかもお腹はいっぱい、とてもショーを楽しめる状況ではありません。女性たちは、うす暗いステージで踊っています。そのクラブは暗すぎて、ステージがどれだけ汚いか、イスやテーブルが実際どれだけ汚れているのかも、わかりません。ふと、このイベントはツアーの初めにやるべきだったのではと思いました。マズローの欲求段階説では、食欲は性欲に勝ります。食欲が満たされすぎてしまうと、今度は睡眠欲が性欲に勝ってしまうのです。

 ステージはなんとも悲しいものでした。女性はもう若くなく、やる気もなく、胸のシリコンは、体のほかの部分の衰えを隠せてはいません。ダンスは不ぞろいで、エネルギーはありません。彼女たちのやる気は、たとえるなら、10代の子供たちが、暑い夏の日に、学校でランチを食べるときと同じくらいです。

「これはダメだ。出よう。」

「運転手が迎えにくるまで出られないよ。」

「彼はどこにいるんだ?」

「ほかの日本人グループをイベントへ連れてってるよ。だけど、健二は楽しそうだね。」

 本当にそうでした。健二は、ガーターベルトが目に入るなり、ドル札をゆっくり滑り込ませていました。注意深く、平等に、みんなに分配しているようでした。ダンサーだけでなくウェイトレスにも、さらには男のバーテンダーたちにまで、すべての曲のたびにです。彼が変態のような笑みを浮かべているのを見て、僕たちは、健二は人生最高の瞬間を楽しんでいるんだと思いました。しかし、このようにお金をもらっても、誰一人として、ちょっとしたサービスをしたり、感謝の意を表したりしないのです。

ガーターベルトのチップ
入れておかないと厳しく叱られるよ
僕たちは、サービスに関してははるかに厳しかったので、財布は閉じたままにしていました。そうしていると、あるダンサーが(まるでゾンビのようにゆっくりと踊っていました)、ステージの上でかんしゃくを起こし、なぜチップをくれないのかと観客を叱りつけはじめたのです。

 これはもう、今すぐ脱出しなければなりません。まだ飲んでいなかったドリンク代を支払い、クラブの外で運転手を待ちました。僕たちはぼったくられた元をすこしでも取ろうと、テーブルのお酒をぜんぶ飲み干して、ピーナッツやチップスをポケットに詰め込んできました。

 クラブの中では写真禁止だったので、ぶっきらぼうなドアマンの写真を、思い出として撮りました。

午前2時:銃


 運転手は遅れて迎えにきました。ようやく外で待たずにすみます。ドアマンにずっと睨まれていたのです、45分間以上も。運転手は、日本人のサービスに対するハードルの高さを理解していて、何度も謝ってきました。前の客は、べつのフラ・ダンス・ショーを見にいったそうです。それを聞いて、僕たちのスケジュールも変えられるのか尋ねましたが、彼はまた謝り、すべて前払いになっていると言いました。

BB弾を持つ少年
その夜、最後の目的地は射撃場でした。僕はアメリカ人ですが、家族はだれも銃火器を持っていませんでしたし、使いもしませんでした。ですのでこれは、僕にとっても新体験でした。家族の政治的信念のおかげで、おおくのアメリカ人が銃を持っているとは知らなかったのです。たった一度だけ本物の銃を見たのは、テレビや映画以外では、警察官の拳銃だけです。

 僕と同じく、一般的な日本人が見たことのある本物の銃は、警察官の古い回転式の拳銃だけでしょう。実際に銃を手にして撃ってみると、禁断に触れたような興奮があり、二度と日の当たる場所には戻れないのでは、という気持ちになります。

 しかし、眠いうえに酔っぱらっています。僕は不思議に思いました。今夜のスケジュールはどうなっているんだ、このイベントを最後にもってくるなんて、正気の沙汰じゃない。事実、普通の感性の持ち主だったら、今夜のイベントはまったく逆の順番にするだろう。

 どうやら、射撃場に関しては、酒を飲まない人向けのようです。銃はフレームの中に備えつけられていて、制限された動きしかできません。ターゲットにしか向かないようにしてあります。もっと楽しくて現実的な射撃体験なら、テレビゲームで味わったことがあります。

 銃は小さく、銃声はおもちゃのように情けなく、銃弾がターゲットに命中しても小さい穴があくだけです。

Desert Eagle Magnum 44
健二は、そんな中、追加料金を支払い、デザット・イーグル44マグナムにレベルアップしていました。一発ごとに爆発音が鳴りひびき、とてもイヤープロテクターごしに聞こえる音とは思えませんでした。健二の不敵な笑みは、ストリップ・クラブではいやらしさの表れでした。それが今や、射撃の狂気にかられた笑みに変わっているのです。

 射撃場の係員が、健二の後ろに付き添っていました。なにも銃弾を補充してあげるためではありません。ほろ酔いの健二が、解きはなたれたデザートイーグルを、きちんと的に向けているかを確かめているのです。健二が暴走して、危険なものを狙いはじめたらマズイですからね。

 健二だけが、備えつけでないハンドガンを持っていたので、思い出に撮ったのは、健二がデザート・イーグル (弾は入っていませんよ) の銃口を額に当てている写真です。健二は銃口をくわえようともしましたが、係員から衛生上の理由で止められていました。

旅のその後


 あとの二日間は、ビーチで過ごしたり、火山に行ったりしました。どちらも強制ディナーと強制ショッピング付きです。どちらの日にも、初日の夜のようなことはありませんでした。マウイ島の砂浜はほんとうに楽しかったです。あまりに混んでいることを除けばですがね。

Chippendales
女性の内緒の行動は、何でしょう?
女性社員たちに、オンナたちの夜遊びツアーはどうだったかと聞いてみました。彼女たちは、くすくす笑ってただ一言

「ひ・み・つ。」

 帰りの飛行機の中で、同僚の一人が僕に聞きました。アメリカ人として、ハワイでの『アメリカ』はどうだったかと。僕は答えました。

「あれはちょうど、日本人にとってのカリフォルニアロールと同じようなものだよ」と。

アロハ。

2014年1月24日金曜日

ビザ・ランをしようとする不法滞在のカナダ人



 税関と入国審査の通過は海外旅行にはつきものとはいえ、退屈でイライラする。だから成田国際空港で赤い線に立って次の入国審査窓口が空くのを待っていた僕は少しびくびくしていた。

「すでに日本に3ヵ月滞在してますね。なぜ戻ってこようと思ったんですか?」

 審査官は尋ねた。頭の中で何百回も練習していた場面なので、胸の動悸を抑えつつ、冷静に答えた。

「前の3ヵ月はほとんど東京近辺にいたので、日本国内の他の地方を見る機会がなかったんです。だから北海道でスキーをしたり、長野でオリンピック村を見たり、もっと日本観光をしようと。」

 本当は、3ヵ月前、僕が英語教師の職という伝説の財宝を求める大勢の外国人のひとりとして来日し、そのほとんどと同じく、最初の3ヵ月は空振りに終わった。ビザ失効の1週間前にバンコクに出国し、これから2度目の挑戦というところだった。観光を言い訳に再入国しようとしたわけだ。

 入国審査官が僕の話を信じていないのは沈黙の長さでわかった。そして聞きたくなかった短い返事が、ありふれた何気ない3単語が、あの日、僕の薄っぺらな冷静さを完膚なきまでに粉々に打ち砕くハンマーの一撃になったのだった。

「ワン モーメント プリーズ」

 その一言で、今日はついてない日だとわかった。僕は自分を呪った。何をやらかした?どこで失敗した?カウンター越しに審査官が上司を連れて戻ってくるのが見えた。僕の脳裏にバンコクで目覚めた時の嫌な予感が蘇った。そのときは早朝のフライトのために空港で徹夜したせいで神経が高ぶっているだけだと頭からかき消したが、タイ移民局に逮捕拘留されたアメリカ人についての悲惨な投書をバンコク・タイムズで読んでから、不吉な予兆が膨れ上がっていた。

 その予兆は彼の話に沿ったものだった。30人の男たちが大小便をする地面の穴しかない悪臭漂う満員の監房というイメージは、哀れな奴だな、という見下した思いをもってしても消えることはなかった。彼はただ最悪な扱いを受けたというだけでなく、バンコクで不当逮捕されたのだ。僕が滞在していた1週間の間にも、タイ警察の麻薬ギャングに対する暴力的な取締が行われていて、麻薬の売人とされる6人が即刻死刑に処されたバンコクで。

 僕は列から連れ出され、壁で仕切られた中央管理部の一室に通された。彼女からの手紙には北海道に滞在する間彼女のおばの家に世話になると書いてあったので、僕はそれを持ち出せば主張を通せるはずだと思っていた。

「日本は小さな島国なのに、どうして戻ってきたいんですか?」

 上司は頭を前後に揺らしながら尋ねてきた。僕はさっきと同じように答え、手紙を見せた。彼はしばらく黙り込み、1分ほど何も言わずに手紙に目をやった。そして彼はくだけた口調で、他に日本人の知り合いはいるかと尋ねた。彼は手紙のことは気にもかけない様子で、知人たちの名前と電話番号を書くよう僕に指示した。ペンと紙を渡された僕は日記のページを繰り、片膝に紙を、もう一方の膝に日記を置いて指示通り書き写した。すると彼はまた無関心を装うような何気ない口調で、書いている僕に向かって、東京で3ヵ月間何をしていましたか、どこへ行きましたか、何を見ましたか、と尋ねた。

(イメージです)
 僕は姑息な手段にもひるまず、友人と渋谷や新宿で夜遊びしたこと、歌舞伎を見たこと、週末に神戸旅行をしたこと、たくさんの日本人の家にお邪魔したことなどを滔々と話した。その間、彼はまたも何気ない様子で手を伸ばすと、僕の日記を手に取った。ページをめくり、面接リストに書かれた給料、学校の特色、契約条件に行き当たると、彼の顔は険しくなり、3つのパートタイム英語教師の仕事のスケジュールをを見つけたところで、僕を見る彼の目つきは険悪で冷徹なものになった。

「いろいろと説明してもらえますかね」

 彼はそう冷たく言い放ち、僕は彼が日記のコピーを取るのをパニックに陥りながら眺めていた。恐怖のあまり吐き気の波が押し寄せ、額と背中に流れる冷や汗が、胃の中でゆっくりと凍りついて固いしこりになるのがわかった。いまや嫌な予感は現実になり、僕は日本に再入国できず、生徒にも、雇い主にも、アパートで僕の帰りを心配しながら待ってくれているかわいくて優しい彼女にも、会えなくなると考えざるを得なくなった。僕は努めて理性的になろうとした。

「彼らは何も証明できないし、旅行者として仕事を探すのは違法じゃない。」

 慰めにもならなかった。僕は日記の全内容を思い出そうと無駄なあがきをした。コピー機の前で背中を丸め、日記のすべてのページをきっちりコピーしている入国審査官に目をやった。それから時計に視線を移し、数秒ごとにコピー機が作動音を発し、緑色の光がむき出しのコンクリートの白い壁に反射する中、苦痛に満ちた時間がゆっくりと過ぎていくのを眺めた。捕まって違法労働の疑いが濃厚となった今、この嘘を最後までつき通す以外に僕にできることはないとわかっていた。僕にはまだ入国審査を通過する一縷の望みがある、彼らを説得してここから抜け出すには冷静でいることが必要なのだと、必死で信じ込もうとした。

バンコクの水商売
 この日の暗い先行きからのわずかな逃避を求めて、僕の思考はバンコクへと戻っていった。東京が、歴史と驚くべき先進性を高度に融合させ、犯罪率も失業率も低く、超効率的な素晴らしい交通システムを備え、ビルにも公共施設にも活気ある商業にも裕福さが見てとれる理想的な都市であるとすれば、バンコクはそのまるっきり正反対だ。空港からの1時間の移動の間に、打ち捨てられたバンコクの未来を通りのそこかしこで目にした。大通りで錆び付く中断した公共事業で使われた機械類。集合住宅のコンクリートの残骸に立ち並ぶ、廃棄木材とブリキと段ボールでできた掘建て小屋。どの通り沿いにも定間隔で飾られる、タイ人の誇りである国王の巨大でけばけばしいサーカス風の肖像画に、それを不潔な周辺一帯の中に尊大に照らしだす投光照明。

 気温が30℃台後半に達し、大気汚染指数も跳ね上がる東京の暑い夏を僕は経験していないけれど、バンコクでは暑さと排気ガスと下水が生み出す経験したことのない悪臭に直面して、嫌悪感に顔を歪めた。木の床板が危なっかしくガタガタ揺れるおんぼろバスに乗って、運転手がすごい速さで車線を行き来するたびに悲鳴をあげ、揺すられ、押しやられつつ、僕が目にした区画は、どこもいままで見たこともないほど酷い都市荒廃の様相を呈していた。僕はあるイタリア人に、ローマがいかに『素晴らしいひとつの野外博物館』かを事細かに自慢されたのを思い出した。それならバンコクはさしずめ、素晴らしいひとつの野外下水処理場だ。バスが僕の目的地、カオサン通りの外国人地区に向けて夜道を快走する中、僕は空港から出てハイウェイ沿いでバスを待っている間に目にした、奇妙な光景を思い出していた。

 2方向8車線の道路際のバス停で待っている間、車の群れは車線を区切る線も見当たらない道路を交通マナーなど気にもかけずに猛スピードで駆け抜け、ドアのない壊れかけのトラックもひしゃげて応急修理された車も狂ったように走り続ける中、コンクリートの分離帯にたむろする少年の集団は酒を飲み、歌を歌い、通り過ぎる車に石を投げつけていた。午1時の非現実的な光景を眺めていた僕は、バス停のすぐ裏手の茂みのから聞こえた物音に肝を冷やした。唸り声がして茂みが揺れ、皮膚病にかかった老犬がのろのろと、暑さと排気ガスの息苦しさに頭をうなだれつつ現れたのだ。そいつは僕から1メートルもない所まで近寄ってきたが、僕にも車にも無関心な様子で、カーブのところで崩れるように老体を横たえた。僕の目の前でそいつの呼吸はどんどん苦しげになっていき、一息ごとの間隔はじわじわと長くなり、やがて体が痙攣したかと思うと、ついにその犬は息絶えた。バスが到着すると、係員が降りてきて運賃を集め、僕が乗る直前、彼は犬の死体を茂みに蹴り入れた。それを窓にもたれた乗客たちが笑いながら眺めていた。

「一緒に来てください」

 審査官の上司の指示で僕は夢想から覚めた。彼は右手に、きちんと黄色いファスナー付きの透明ビニール袋に入れられた、僕の東京での日記のコピーを握っていた。東京の店員たちが商品をばか丁寧に包装するように、いまや僕の運命は新鮮密封されていた。僕は彼と一緒に部屋を出て、入国審査窓口に絶え間なく流れ込む人ごみを通り過ぎ、通路の先の待合室に通された。そこには僕以外にも3人の外国人が見るからに不安げに歩き回っていた。部屋に入ってきた数人の日本人係官が、うろうろしていた黒人の男を連れ出した。残された僕らは険しい顔で互いに目配せしつつ静かに自分の番を待った。しばらくして戻って来た男は、大袈裟なジェスチャーを交えて、この10分ほどの沈黙を大声で破った。

「信じられない!強制送還だって!書類もパスポートも全部揃ってるのに!」

 彼の声は次第に小さくなり、ふたたび歩き回り始めた。今度は僕のすぐ隣で、信じられないと頭を振り延々と悪態をつきながら。僕はなんとか正気を保ち、勇気を持とうとしたが、泣き言をわめくこいつに挫かれた。次は僕の番で、別の日本人係官の後について入国審査の管理官のオフィスに入った。背の低いはげた男が薄笑いを浮かべながら慇懃に着席を勧めた。

「日本に再入国したいそうですね?」

 管理官は僕が座りもしないうちに尋ねてきた。見上げると彼は微笑んでいた。というか、彼はずっとそうだった。彼のにやけ顔はどんどん大袈裟になり、いまや第二次世界大戦中の米軍のプロパガンダ風刺画に登場する黒ぶち眼鏡に出っ歯の日本人のようだった。彼の後退した髪は軍隊風に短く刈られていた。ちびで太った彼の名は鈴木といった。僕が機械的に話を繰り返す間、彼は腕組みして頭を傾け、笑みを浮かべつつも、魂胆はわかっているという表情を隠しもせず、根気よく聞いていた。

「東京滞在中の旅程を書いてください」

 紙とペンを机に置いて、僕はしばし考えた。休暇といえば1年にたった1週間のゴールデンウィークだけで、海外旅行に行けたとしても、ホテルと観光バスに缶詰になるのが休暇だと思っている何十人もの同じような日本人との『3都市周遊7日間』の貸切ツアーが関の山であろう、この入国管理官に、どう説得したものだろう。彼は手のひらを紙に向けて差し出し、書くのを促した。僕はしぶしぶ紙を手にとり、そして2つめの間違いを犯した。嘘をついたのだ。パニックになった僕は東京で3ヵ月を過ごしたという話が信じてもらえないと思い、大阪の友人のところにも滞在したと、ありもしないことを書いたのだ。彼はそれに即座に反応した。

「大阪!?」

 彼は驚いたふりをした。矢継ぎ早に質問を浴び、僕は最後まで答えさせてももらえなかった。僕をひるませるこの作戦は大成功で、僕は訪れた寺院の数や見た歌舞伎の回数で日本での時間を定義するつもりはないのだと言い訳しようとしたが、彼は僕の自己防衛の姿勢を察知した。彼は明らかに僕がしどろもどろになるのを楽しんでいた。僕はなんとか主張を通そうと、もう一度彼女からの手紙を持ち出した。

 手紙に目を通しながら、彼は僕に東京の知人の名前と電話番号のリストを求めた。財布には友人の電話番号リストが入っていて、彼らに電話さえできれば冷静に僕を弁護してくれるはずだった。管理官は僕に一瞬の隙も与えず、僕が日本から出て行くのが確実になるまで解放する気はないという雰囲気になりはじめていた。僕はあたふたと電話番号リストを探しながら、この鈴木という男は僕の検事であり、裁判官であり、陪審員なのだと思った。この男は明らかに仕事を楽しんでいる。このちびの管理官はきっと、仕事終わりに居酒屋で同僚に、ばかな外人を笑い者にしながら、漁師のように今日の収穫の話をするのだろう。千鳥足で家に帰って奥さんにうやうやしく給与明細を渡しながら、こそこそ隠している青い上着に付いた染みは、きっとJR線にぶちまけた酒と刺身の吐瀉物のものだ。こんな光景は東京の夜の電車では珍しくない。彼の疑いはもはや晴らせそうになかったが、僕はまだ鈴木の外人釣り話のネタになんてなるものかと思っていた。

 困ったことに気づいた。東京で買った一枚の磁気テープを偽造したテレホンカードを僕はいまだに持っていて、それが電話番号リストと一緒に財布のフラップに入っていたのだ。とある界隈でイラン人の行商人が売っているカードだ。違法テレカなど捨てたと思っていたので、隠そうとしたその時、磁気テープのかわりに貼られたアルミホイルが光を反射したらしく、僕の財布を凝視していた鈴木の目に留まった。

「財布を見せてもらえますか?」

 テレカをしまったカードの束を片手に、僕は財布を渡した。

「そのカードも一緒に」

「あなたは悪い外国人ですね。とても悪い外国人だ」

 彼はカードをひらひらさせて、子供相手にするように僕へのお説教を続けた。彼は同僚を呼んでお楽しみに加えた。鈴木は得意顔だった。彼は逮捕をちらつかせて僕を弄び、その同僚は田舎者のように笑いながら、手錠のジェスチャーをしてみせた。二人は互いに日本語で何か言い、鈴木は電話を手にしてどこかへ掛け始めた。僕は彼女の母親には電話しないで欲しい、同棲しているのは秘密だから恥をかかせたくないし、家族に迷惑になるから、と懇願した。そんなことはどうでもいい、と彼ははねつけた。

 僕は何もできず座っているだけだった。彼が誰に電話しているかもわからず、電話をとった相手が警戒し、上手に嘘をついて僕をこの状況から救い出してくれることを祈るしかなかった。僕には好都合なことに、彼は日本語で話すことにしたようだ。後から来た係官を見上げると、視線に気づいた彼はまた手錠のジェスチャーで僕をばかにして、まぬけな笑みを浮かべた。僕は日本人の名高いホスピタリティに大きな疑問を抱いた。彼らは個人の事情に介入せずにはいられないようで、もはやおしまいだと思った僕は、脱走という手段を検討してみた。うまくいきそうにない。入国審査窓口を飛び越えられたとして、職員たちに追われながら、税関の障害を越えるのは無理だろう。机の上のビニール袋を奪わなければ日本から出ることもできない。そう思うと、何かやらなければという気持ちがわき起こった。僕は誰に電話しているのか聞いた。僕には目もくれず、彼は彼女の母親の名前を指差した。あのままバンコクにいればよかった。

 鈴木の突然の発作的行動に、僕は意識を取り戻した。

 鈴木が唐突に断定的な言葉を口にし、僕はタイの回想から引き戻された。

「あなたはただの悪い外国人じゃない」

キャビネットから数枚の書類を取り出して向き直ると彼は言った

「あなたは嘘つきだ!」

彼はずいぶん感情的になっているようだった。僕を嘘つきと呼ぶのはお門違いだ。そもそも東京で違法労働をしていたかどうかという決定的な質問をまだされていないのだから。それに電話一本で僕が大阪にいたという嘘を見破れるはずはなかった。

「彼女は何といったんですか?」

返事はなかった。彼は薄いコピーの業務書類の束に署名するのに忙しいようだ。

「僕には自分に何が起きているのか知る権利がある」

 彼は作り笑いで言った。

「あなたをカナダに強制送還します」

 終わった。チェックメイト。日本の悪徳公務員、必死なカナダ人観光客に勝利。何を言うべきかわからなくなった僕は、どうしようもなくなった人間らしく、懇願した。時間をください。却下。アパートに戻って物を片付けさせてください。却下。電話をさせてください。驚いたことにこれは認められた。彼女のことしか考えられず、アパートに電話して悲しい知らせを伝えようとしたが、留守だった。

 電話を切ると鈴木は僕の署名を求めてきた。自分の都合しか考えていないことに驚かされたが、彼には最初から僕の運命がわかっていたのだ。日記のコピーで足りなければ、偽造カードを持ち出せばいいだけだ。愕然とした僕は、機械的に書類にサインしはじめた。

「あいつは3ヵ月したらまた戻ってくるよ」

と、別に好きでもない人の声が頭にこだまして、僕は二度とそいつに話しかけるまいと心に決めた。このとき僕は最後の大失敗をやらかした。何の書類にサインしているか気にもかけなかったのだ。僕は異議申立の権利を放棄していたと後で知ったが、その時感じたのは敗北感と屈辱だけで、その感覚は大学2年のバスケットボールの準決勝の試合で、実際は1点負けていたのに1点勝っていると思いこんで試合時間の最後の10秒をやり過ごし、尊敬する教授に退学させるぞと脅された時のようだった。

(イメージです)
 僕はまた待合室に戻された。室内の人数は倍になっていた。この日の収穫だ。1時間かそれ以上待たされる間にさらに人は増えた。もう一度電話をかけてみたが彼女にはつながらなかった。僕はひどく落ち込んだ。誰かが話しかけてきたが、興味をもてなかった。その日はフライトがなかったので、次の日の最初のフライトまで広い待合室に移ることになった。その時になってやっと部屋を見渡すと、そこには落胆と恐怖の空気が充満していた。彼らのほとんどは後で日本からの出国を待つ間の同居人になったが、それでも互いにほとんど話もしなかった。僕らは他人の苦痛に冷淡になり、自分勝手に惨めさと軽蔑の思いを抱いていた。僕の脳裏をよぎったのは、僕のシャツを羽織ってアパートで一人で泣いている彼女、突然いなくなった僕に面食らい、また外人教師に裏切られたと思っている担当生徒、戻ってくるという約束を破ったことに腹を立てている雇い主、そして最後に、国に帰って顔を合わせ、見込みの薄い大博打にばかり賭けては失うような僕の人生にまた一つ失敗が加わったことを報告しなくてはいけない人たち。何人もの外人たちが、鈴木という国外退去前の最後の拠り所に向かっていき、うなだれて戻ってくるのを見た。敗北だった。

 人間をかくも効率的かつ冷酷に扱い、システマティックに適格性を審査し、希望を打ち砕くやり方にはぞっとする。僕の心の目はその光景を歪め、もっと苦痛に満ちた、旅行者もまばらなどこか辺境の国境通過点で入国の承認を待つ場面へと変えた。名前が呼ばれ、僕は武装した兵士に連れだされる。10代の兵士が片言の英語で僕のランニングシューズを

「コンバース‥クール」

と褒めるのが聞こえ、僕は野原に連行される。ひざまづかされ、10代の処刑人のひとりが何か言うのが聞こえる。金をよこせ?裕福で太った彼の顔は...

「1泊300ドル払ってください」

 僕は警備会社のオフィスに座っていた。この会社は税関と入国審査の手続きを終えた国外退去者の管理を請け負っていて、僕の死地への旅の妄想を中断したのは制服の太った男だった。きつく締めた襟から膨張したような丸い顔は、小さな青い帽子と相まって、やたら大きく見えた。僕は自分自身を閉じ込めることに金を払うよう強要されていた。

「イヤだ、払わない」

 いまさら断固とした態度をとることに意味があるのかはわからなかったが、どうせ監房で一夜を過ごす権利を買わされるなら知ったことか。時刻は3時半。僕は1時の到着からずっと拘束されていた。事態は最悪で、日本に戻れる見込みはもうほとんどなかった。めまぐるしく事が進んだせいか強い反論を全くしてこなかったことに気づいた僕は、失うものがなくなった今、事態の進展を引き延ばすことにした。

「カナダ大使館と話をさせてくれ!」

 彼は不信感に満ちた眼差しを取り戻した。日本人は対立的な行動への対処が苦手なのだ。

「無意味ですよ。あきらめなさい。もうおしまいなんです」

 彼の言葉は耳に入らなかった。僕は領事館の人間と話すまで何も言わず何もしないことに決めた。椅子にもたれ、たばこに火をつけた。

「これは脅迫だ。大使館の人間と話したい」

 僕は楽しんでいた。もうカモにはならない。要求が通るまで、挑発と拒絶を続けてやろう。僕は外国の公務員に脅されたカナダ国民なんだ!そうしてカナダ大使館が人を寄越すまで、僕はできるかぎりリラックスして待とうとした。バンコク滞在中、僕の一日はやっと辿り着いたバンコクのゲストハウスのロビーで受けるタイ古式マッサージで始まったのを思い出してみた。若くて綺麗なタイ人女性が首と肩の凝りをしっかりほぐし、強い手つきで筋肉のあらゆる痛みや緊張を取り除いてくれた。今や僕は東京ではなくバンコクを目的地にしていればよかったと思っていて、このざまからなんとか脱出できたら、すぐにでもバンコクに向かおうと誓った。

 大使館から人が来ることはなく、電話も二度と使わせてもらえなかった。3時間訴え、叫び、机を叩き続け、僕の遅延戦術は正当化しがたいものになってきた。もう午後8時近くになっていて、電話が認められたところで大使館には誰もいないだろう。そうして結局、違法テレカの件で逮捕するぞと脅されて、僕は金を払い、その日入国を拒否された20数人の外国人と共に監房で一夜を過ごした。これが1日の平均的な違法入国摘発数だとすれば、年間収入200万ドルを越えるおいしい商売だ。侮辱のとどめの一撃は、ロサンゼルス国際空港からの接続便は手配すらされていなかったことだ。

こうして僕は1年間の日本への入国禁止を食らった。その先も入国しようとすれば入念な取り調べを受けるだろう。

バンクーバーに戻って、友人たちにこの話をした時、僕は再入国できていたらあの冬長野でオリンピックを生で観戦できたはずだったのが本当に悔しい、と言った。

「いや、冬季オリンピックはまだ98年からだろ」と誰かに指摘された。

 僕は、嘘が下手なようだ。
長野五輪のマスコット