私は、仕事でよく渡航します。私はよく渡航をするので、日本のパスポートを所持するというアイデアは魅力的でした。日本をベースにする場合、米国のパスポートよりも移動が楽になるからです。たとえば、インドへのビザは、日本在住の非日本人の場合、手続きに時間がかかりますし、アメリカ人は中国への入国が日本人よりも困難です。日本のパスポートがあれば、キューバで休暇を過ごして、葉巻やラムを楽しむことができます。私には仕事の関係で日本に帰化した中国人の友人達がいます。彼らは、中国のパスポートでは仕事での移動がとても難しいと言います。
日本国籍の資格の視点から言えば、私の最大の懸念は『継続した年数の居住』として数えるには多くの日数を日本国外で過ごしていることでした。合計100日以上を継続で、または150日以上を日本国外で過ごしており、これは『居住年数』に入りません。同様に、出張での米国への滞在も合計で1ヵ月を超えないよう、注意してカレンダーを確認していました。でなければ、米国の課税の2555という書類の免除を失ってしまうからです。米国市民は、毎年どこに居住しようとも書類提出をして、場合によっては納税をしなければなりません。
言うまでもなく、私は帰化に必要な居留の要件は満たしています。
数ヵ月待った後、私が思いもしなかった時期に帰化の許可に関する電話をもらいました。私は、法務省とのやり取りをしていて、もう少し時間がかかるだろうと思っていました。私が定期的に法務省とやり取りをしていた理由は、帰化が許可されるまで、生活に何らかの変化(仕事が変った、結婚、離婚、出生、死亡など)があった場合、または日本を出入国する場合、地元の役所およびケースワーカーに連絡をとることになっているからです。私は頻繁に日本を出入国しているので、電話をしやすいよう連絡先に星印をつけて、私を担当してくれている公務員の小林さんに連絡をしていました。会話はいつもこのような内容です。
「国籍課ですか?はい、小林さんをお願いします。」
「ケース番号をお願いします。」
「1279番です。」
「少々お待ちください。(待ち受けの音楽)国籍課の小林です。」 井上さんですね?」
「小林さん、こんにちは。以前お話しした通り、日本に戻りました。予定通りです。」
「おかえりなさい!フライトの詳細も同じですか?」
「はい、同じです。実は、来月また出国します。」
「わかりました。出国する前にまたお電話ください。」
「わかりました。ところで、私の申請はどのようになっていますか?」
「まだ何も聞いていません。もし何かありましたら、何か連絡があると思いますので、ご心配なく。何かありましたら、すぐこちらから連絡します。」
「ありがとうございます!」
連絡を待っている間、成田と羽田での乗換を含む数カ国への移動を予約しました。出張に出かける1週間前、法務局から連絡があったと小林さんから電話がきました。
「良いお知らせですよ!申請が承認されました!日本人になりましたよ!いつ帰化者の身分証明書を受け取りにこられますか?」
「ええっと、出張から戻るまでの数週間、私の帰化を待っていただくことはできますか?」
「え?ええ… 申し訳ないのですが、だめです。既に決まったことなので。」
「日本のパスポートを取るには、どれくらいかかりますか?」
「至急ですか?恐らく、一週間くらいかかります。ただ日本のパスポートを取るには、まず国籍謄本が必要です。パスポートは、帰化者の身分証明書を元にして地元の区役所で作ることになりますが、急いでも10から15日はかかります。」
「日本のパスポートを手に入れるまで、米国のパスポートで渡航することはできますか?」
「ちょっとわかりませんね。私は入国管理ではないのですし。日本国籍関連のことしかやってないので。あなたの渡航の頻度を考えますと、できるだけ早くに日本のパスポートを取得することをお薦めします。」
そこで私は、法務局へ帰化者の身分証明書を取りに行きました。月に一度位で授与セレモニーをしているようでしたが、急いでいたのでセレモニーはなしで、受け取りました。色々と助けてくださった小林さんにはお礼を言いました。小林さんは満面の笑みで「おめでとうございます」と言って頭を下げ、彼が書類の手続きをした初めてのアメリカ人だと言っていました。正式な手続きを済ませて、私はすぐに閉まってしまう前に区役所へ行き、元となる書類を使って、日本人となる手続きをすべて行いました。私の外国人登録を削除し、外国人登録証明書を返還し、市民にのみ発行されるため国籍の証明となる住民票、そして関連する住基カードを作りました。問題は、私の戸籍謄本でした。私は帰化申請の本籍を私の家族の登録のある大阪市にしたいと思っていました。私が子どもの頃過ごした場所であり、私が妻と出会った場所であり、妻の家族の登録がある。大阪市は私にとって、日本の原点として特別な意味があったからです。本籍は、実際に住んでいる場所に関係なく、日本国内で任意の合法な住所(番地レベルまで)を指定することができます。問題は、もし本籍地が実際に住んでいる場所と異なる場合、本籍に対する一切の要請、作成、変更は、地元の役所から郵便で転送しなければなりません。ですから、至急の手続きが不可能です。至急に戸籍を入れることができないということは、パスポートを至急で作ることができません。私は残りの一日、地元の警察署へ行き、運転免許証の名前を合法な漢字の名前に変更し、デジタルで ICチップ内の本籍を米国から『大阪府大阪市』に変更しました。プライバシー保護のため、本籍は日本の免許証へデジタル的に暗号化されて二つのPINとして保存されるだけで、カードに印刷されることはありません。
次の週、空港へ行き、米国のパスポートで出国できるかを確認しました。私は自動化ゲートシステムに登録し、つまり私の『外国人在留資格:永住者』-とこれに関連する、在留資格を失わずに出入国を許可する数次再入国許可、そして私の指紋をコンピューターシステムに登録しました。入国管理官が行う唯一の手続きは外国人再入国のための出入国記録カードの処理と、 もしパスポートに実際のスタンプが必要な場合にはお願いすれば、自動化ゲートユーザーにも任意で押してくれます。
米国のパスポートと指紋をスキャンし、何も無いことを祈りました。問題ありませんでした。私はゲートを抜けました。
「ああ、これは便利だ」 と私は思いました。
私の永住者向けの数次再入国許可は、自動化ゲートで登録され、今でも有効です。恐らく、期限切れとなるまで記録されているでしょう。もちろん、更新できないことは知っていましたが、日本のパスポートの発行を待つ間の渡航の問題を解決する助けとなりました。出張から戻ってきてから申請すればよいのです。
しかし、そんなに簡単には行かないことを知っておくべきでした。成田に戻り、自動化ゲートを再び通過しました。コンピューターは私を認識できないと表示しました。「再入力許可のQRコードをスキャンしてください」大変です。 そこで、最良の結果を祈って、スキャンしました。次のエラーメッセージは「係官に助けを借りてください」というものでした。
機械の操作法がわからない人がいるのかと、自動的に呼ばれた係官がやって来ました。彼は手続きを手伝ってくれました。しかし同じ結果でした。彼は私のパスポートのすべてのページを確認し、もう一度試してくださいと言いました。同じエラーです。彼は管理画面にパスワードを入力し、今度は再入国カードの裏にあるIDのバーコードをスキャンするように私に言いました。しかし、またエラーです。ところで、私はこのバーコードの存在を今まで知りませんでした。
「そこでお待ちください。」
彼は外交官/航空会社乗務員の列の横にあるベンチを指差しました。ベンチの隣には開いているオフィスがありました。彼は私のパスポートを持ってオフィスへ入り、他のパスポートスキャナーが接続されているコンピューターの後ろにまわりました。私は彼がスキャンする間、画面を覗き込む彼の表情を見ていました。彼が見ているものが彼に警戒心をかき立てるものなのか、(テロリスト、スパイ、指名手配中の犯罪者)それとも不快にさせるものなのか(ビザ違反、偽パスポートなど)判断しようと試みました。幸いそれは、困惑と狼狽の表情でした。彼は机にある電話を取って、セカンドオピニオンを得るために電話をしました。もう一人係官がやって来て、パスポートのすべてのページを確認し、スキャンをし、キーボードのいくつかのキーを押しました。すると二人は、画面のいくつかの場所を指差し、話し合いをして、机の下からマニュアルを出すと、インデックスを見て、ページを読み、ページの様々な箇所を指差して話し合いをしています。10分ほどで係官が戻ってきました。
「あなたは日本国籍をお持ちですか?」
「はい。」
「ああ、やっぱりそうなんですか!」それですべての説明がつきました。
「あなたは本来日本のパスポートを使うことになっています。見せていただけますか?」
私は持っていないので、帰化の時点からのすべての状況を説明しました。
「ううん。どうしたら良いか、検討してみましょう。日本の運転免許証はお持ちですか?」
私のような変ったケースの場合には、入国に日本の運転免許証が使えるかの様でした。しかし、です!私は運転免許証を持っていますし、更新もしましたから、日本人であることは証明できますが、家の車に置いてきてしまいました!そこで私は、自分の住基カードを渡しました。これはデジタルICチップに合法な日本のIDが入っているので、日本国籍を証明できます。しかし彼は私に謝ってきました。このカードは有効なIDなのですが、入管のコンピューターがまだ更新されておらず、このカードを扱うことができないとのことでした。
彼らは私を通してくれました、(本来は罰金を課されるところでしたが、私は何も言われませんでした)しかし「なるべく早く日本のパスポートを取得してください」と警告されました。
「また渡航しなければならないのに、パスポートがない場合にはどうなりますか?」
「また渡航するのですか?」
「はい、5時間後に。」
係官の目がまん丸くなりました。「ちょっと待ってください。」
彼は、オフィスにいる他の係員と再び協議をしています。私は心配になりました。なぜなら、もう一人の係官は、手続きマニュアルを再びみながら頭を横に振っていたからです。10分後、彼は戻ってきました。
「通常の外国人の列を通ってください。何があっても、再入国の列や、日本人の列を使わないように。通常の外国人向けの出入国カードを使用してください。外国人居住者の再入国のカードは使わないように。」
「入国管理官が、私の米国のパスポートの永住権や、再入国のスタンプをみた場合、どうなりますか?」
「よくわかりません。」
「わからないってどういうことですか?!あなたは入国管理官じゃないですか!私は信頼できる答えが欲しいんです!」と考える私がいました。
しかし一方で、特別に臨機応変な対応に深く感謝しながら、入管で足止めされて、この人達のIDバッジを覚えておこうとも思いました。(そうすればもしすべてが大問題になった時に、彼らを指差して責任を取ってもらえるからです)
入国管理官は私の米国のパスポートに外国人出入国 (再入国ではない) カードを留め付け、搭乗部分を破り、上陸部分を残して、日本に入国した外国人観光客同様にパスポートにスタンプを押しました。
こうして成田で入国を通過して、シャトルで羽田に向かいました。そこでは外国人(マニュアル、非自動化の)列を通りました。そこでの係官はカードの最後の上陸部分をパスポートから外し、再びスタンプを押しました。問題もありませんでした。質問もされませんでした。
日本に戻って来ると、成田の係官に言われた通り、外国人向けの出国カードを記入しましたが、私は通常の観光客向けの出国カードをみたことがなかったので、少し緊張しました。そこには再入国用のカードにはない、「日本訪問の目的は何ですか?」、「日本に何日間滞在する予定ですか?」等の質問があり、嘘はつきたくなかったので、それらのセクションをすべて回答せずにおきました。入管は私の写真を撮り、デジタルで指紋も採取しました。問題もありませんでした。私が回答しなかった部分について、係官は何も質問をしませんでした。写真もデジタルの指紋も問題はありませんでした。そのように手続きをされ、問題も、質問もなかったのです。私の米国のパスポートには、使っていない約三ヵ月の一時的上陸許可のある外国人用入国カードがまだ残っています。これは、今まで観光客や訪問者として日本にいたことのない私にとって愉快なことです。今まで一度もそのような経験がないのですから。90年代初頭に最初に訪れたときから、労働ビザで滞在していました。このステッカー/スタンプは、前のページにある再入国許可と永住権のステッカーよりも後(このステッカーによるとまだ有効です) の日付が押されています。私は遂に、観光で日本にやって来たのです。永住権を取得し、今では合法に日本に在住した後のことです。
どうして入国管理官が私のおかしなスタンプのパスポートを見逃しているのか不思議に思っている方がいるとしたら、理由はこういうことです。QRコードがついていて、データベースに記録されている再入国許可は、『キャンセル』または『無効』というスタンプがなくても、デジタル的にキャンセルされていているのです。入管の観点から言えば、私は永住権を持っているけれども、私の数次再入国許可を早期にキャンセルすることにして、国を離れ、何かの理由(税金とか?)で永住権を実質的にキャンセルしたけれど、米国からの観光客として再訪したということになっているのです。ですからパスポートは、少し普通とは違う状態ではあっても、厳密には『規則違反』ではないのです。多くの永住権所持者は、もう一度取得するのは大変なので、放棄することはありません。
渡航が一段落して、やっと数ヵ月後に日本の書類をきちっと手に入れることになった時、小林さんに電話をして、彼が入管に関してはあまり知らないと言っているにも関わらず、どうなっているのか調べてくれないかとお願いをしました。
彼は数週間後に電話でこう説明してくれました。基本的に何が起きたかと言うと、私は既に日本人で、もう申請することがないので、私が海外にいる間、法務省が入管に連絡をとって、デジタル的に私の再入国許可をキャンセルしたのだと話してくれました。本来であれば、私が帰化したと同時にすぐに私の再入国許可をデジタル的にキャンセルするべきで、そうすれば自動化ゲートを使って外国のパスポートで、人間の目によるパスポートチェックを経ずに出国することはできなかったわけです。
小林さんは、日本の入管で米国のパスポートを二度と使わないように警告してくれました。私は米国市民であり、現在日本の観光客として記録(指紋バイオメトリックスを含むデジタルデータで)されていて、合法に認められている滞在期間を越えてしまっているからです。
「将来問題になるでしょうか?罰金や何かで?」私は尋ねました。
「たぶん問題にはなりません。最初の間違いを犯したのは法務省と入管なので。あなたの状況はとても変っています。提示したすべての書類は有効で、誠意を持って提示されました。しかし、担当役所間の問題となり、空港の入管で長い一日を過ごすことになるでしょう。あなたにフライトに遅れて欲しくないですから!」と彼は笑いました。
「ということは、指紋チェックのせいで、日本人として自動化ゲートを使えないということですか?」
「いいえ、それは問題にはなりません。データベースは、法的なプライバシー保護の理由から、繋がっていませんから。」
ですから、日本人である私は、理屈をつべこべ言う必要なく、合法に日本に滞在することができるのですが、現在放棄手続きの最中ですがアメリカ人である私は現在厳密にはオーバーステイであることになっています。
ところで、今は日本のパスポートを持っています。
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2014年3月31日月曜日
2014年1月24日金曜日
ビザ・ランをしようとする不法滞在のカナダ人
税関と入国審査の通過は海外旅行にはつきものとはいえ、退屈でイライラする。だから成田国際空港で赤い線に立って次の入国審査窓口が空くのを待っていた僕は少しびくびくしていた。
「すでに日本に3ヵ月滞在してますね。なぜ戻ってこようと思ったんですか?」
審査官は尋ねた。頭の中で何百回も練習していた場面なので、胸の動悸を抑えつつ、冷静に答えた。
「前の3ヵ月はほとんど東京近辺にいたので、日本国内の他の地方を見る機会がなかったんです。だから北海道でスキーをしたり、長野でオリンピック村を見たり、もっと日本観光をしようと。」
本当は、3ヵ月前、僕が英語教師の職という伝説の財宝を求める大勢の外国人のひとりとして来日し、そのほとんどと同じく、最初の3ヵ月は空振りに終わった。ビザ失効の1週間前にバンコクに出国し、これから2度目の挑戦というところだった。観光を言い訳に再入国しようとしたわけだ。
入国審査官が僕の話を信じていないのは沈黙の長さでわかった。そして聞きたくなかった短い返事が、ありふれた何気ない3単語が、あの日、僕の薄っぺらな冷静さを完膚なきまでに粉々に打ち砕くハンマーの一撃になったのだった。
「ワン モーメント プリーズ」
その一言で、今日はついてない日だとわかった。僕は自分を呪った。何をやらかした?どこで失敗した?カウンター越しに審査官が上司を連れて戻ってくるのが見えた。僕の脳裏にバンコクで目覚めた時の嫌な予感が蘇った。そのときは早朝のフライトのために空港で徹夜したせいで神経が高ぶっているだけだと頭からかき消したが、タイ移民局に逮捕拘留されたアメリカ人についての悲惨な投書をバンコク・タイムズで読んでから、不吉な予兆が膨れ上がっていた。
その予兆は彼の話に沿ったものだった。30人の男たちが大小便をする地面の穴しかない悪臭漂う満員の監房というイメージは、哀れな奴だな、という見下した思いをもってしても消えることはなかった。彼はただ最悪な扱いを受けたというだけでなく、バンコクで不当逮捕されたのだ。僕が滞在していた1週間の間にも、タイ警察の麻薬ギャングに対する暴力的な取締が行われていて、麻薬の売人とされる6人が即刻死刑に処されたバンコクで。
僕は列から連れ出され、壁で仕切られた中央管理部の一室に通された。彼女からの手紙には北海道に滞在する間彼女のおばの家に世話になると書いてあったので、僕はそれを持ち出せば主張を通せるはずだと思っていた。
「日本は小さな島国なのに、どうして戻ってきたいんですか?」
上司は頭を前後に揺らしながら尋ねてきた。僕はさっきと同じように答え、手紙を見せた。彼はしばらく黙り込み、1分ほど何も言わずに手紙に目をやった。そして彼はくだけた口調で、他に日本人の知り合いはいるかと尋ねた。彼は手紙のことは気にもかけない様子で、知人たちの名前と電話番号を書くよう僕に指示した。ペンと紙を渡された僕は日記のページを繰り、片膝に紙を、もう一方の膝に日記を置いて指示通り書き写した。すると彼はまた無関心を装うような何気ない口調で、書いている僕に向かって、東京で3ヵ月間何をしていましたか、どこへ行きましたか、何を見ましたか、と尋ねた。
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「いろいろと説明してもらえますかね」
彼はそう冷たく言い放ち、僕は彼が日記のコピーを取るのをパニックに陥りながら眺めていた。恐怖のあまり吐き気の波が押し寄せ、額と背中に流れる冷や汗が、胃の中でゆっくりと凍りついて固いしこりになるのがわかった。いまや嫌な予感は現実になり、僕は日本に再入国できず、生徒にも、雇い主にも、アパートで僕の帰りを心配しながら待ってくれているかわいくて優しい彼女にも、会えなくなると考えざるを得なくなった。僕は努めて理性的になろうとした。
「彼らは何も証明できないし、旅行者として仕事を探すのは違法じゃない。」
慰めにもならなかった。僕は日記の全内容を思い出そうと無駄なあがきをした。コピー機の前で背中を丸め、日記のすべてのページをきっちりコピーしている入国審査官に目をやった。それから時計に視線を移し、数秒ごとにコピー機が作動音を発し、緑色の光がむき出しのコンクリートの白い壁に反射する中、苦痛に満ちた時間がゆっくりと過ぎていくのを眺めた。捕まって違法労働の疑いが濃厚となった今、この嘘を最後までつき通す以外に僕にできることはないとわかっていた。僕にはまだ入国審査を通過する一縷の望みがある、彼らを説得してここから抜け出すには冷静でいることが必要なのだと、必死で信じ込もうとした。
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| バンコクの水商売 |
気温が30℃台後半に達し、大気汚染指数も跳ね上がる東京の暑い夏を僕は経験していないけれど、バンコクでは暑さと排気ガスと下水が生み出す経験したことのない悪臭に直面して、嫌悪感に顔を歪めた。木の床板が危なっかしくガタガタ揺れるおんぼろバスに乗って、運転手がすごい速さで車線を行き来するたびに悲鳴をあげ、揺すられ、押しやられつつ、僕が目にした区画は、どこもいままで見たこともないほど酷い都市荒廃の様相を呈していた。僕はあるイタリア人に、ローマがいかに『素晴らしいひとつの野外博物館』かを事細かに自慢されたのを思い出した。それならバンコクはさしずめ、素晴らしいひとつの野外下水処理場だ。バスが僕の目的地、カオサン通りの外国人地区に向けて夜道を快走する中、僕は空港から出てハイウェイ沿いでバスを待っている間に目にした、奇妙な光景を思い出していた。
2方向8車線の道路際のバス停で待っている間、車の群れは車線を区切る線も見当たらない道路を交通マナーなど気にもかけずに猛スピードで駆け抜け、ドアのない壊れかけのトラックもひしゃげて応急修理された車も狂ったように走り続ける中、コンクリートの分離帯にたむろする少年の集団は酒を飲み、歌を歌い、通り過ぎる車に石を投げつけていた。午1時の非現実的な光景を眺めていた僕は、バス停のすぐ裏手の茂みのから聞こえた物音に肝を冷やした。唸り声がして茂みが揺れ、皮膚病にかかった老犬がのろのろと、暑さと排気ガスの息苦しさに頭をうなだれつつ現れたのだ。そいつは僕から1メートルもない所まで近寄ってきたが、僕にも車にも無関心な様子で、カーブのところで崩れるように老体を横たえた。僕の目の前でそいつの呼吸はどんどん苦しげになっていき、一息ごとの間隔はじわじわと長くなり、やがて体が痙攣したかと思うと、ついにその犬は息絶えた。バスが到着すると、係員が降りてきて運賃を集め、僕が乗る直前、彼は犬の死体を茂みに蹴り入れた。それを窓にもたれた乗客たちが笑いながら眺めていた。
「一緒に来てください」
審査官の上司の指示で僕は夢想から覚めた。彼は右手に、きちんと黄色いファスナー付きの透明ビニール袋に入れられた、僕の東京での日記のコピーを握っていた。東京の店員たちが商品をばか丁寧に包装するように、いまや僕の運命は新鮮密封されていた。僕は彼と一緒に部屋を出て、入国審査窓口に絶え間なく流れ込む人ごみを通り過ぎ、通路の先の待合室に通された。そこには僕以外にも3人の外国人が見るからに不安げに歩き回っていた。部屋に入ってきた数人の日本人係官が、うろうろしていた黒人の男を連れ出した。残された僕らは険しい顔で互いに目配せしつつ静かに自分の番を待った。しばらくして戻って来た男は、大袈裟なジェスチャーを交えて、この10分ほどの沈黙を大声で破った。
「信じられない!強制送還だって!書類もパスポートも全部揃ってるのに!」
彼の声は次第に小さくなり、ふたたび歩き回り始めた。今度は僕のすぐ隣で、信じられないと頭を振り延々と悪態をつきながら。僕はなんとか正気を保ち、勇気を持とうとしたが、泣き言をわめくこいつに挫かれた。次は僕の番で、別の日本人係官の後について入国審査の管理官のオフィスに入った。背の低いはげた男が薄笑いを浮かべながら慇懃に着席を勧めた。
「日本に再入国したいそうですね?」
管理官は僕が座りもしないうちに尋ねてきた。見上げると彼は微笑んでいた。というか、彼はずっとそうだった。彼のにやけ顔はどんどん大袈裟になり、いまや第二次世界大戦中の米軍のプロパガンダ風刺画に登場する黒ぶち眼鏡に出っ歯の日本人のようだった。彼の後退した髪は軍隊風に短く刈られていた。ちびで太った彼の名は鈴木といった。僕が機械的に話を繰り返す間、彼は腕組みして頭を傾け、笑みを浮かべつつも、魂胆はわかっているという表情を隠しもせず、根気よく聞いていた。
「東京滞在中の旅程を書いてください」
紙とペンを机に置いて、僕はしばし考えた。休暇といえば1年にたった1週間のゴールデンウィークだけで、海外旅行に行けたとしても、ホテルと観光バスに缶詰になるのが休暇だと思っている何十人もの同じような日本人との『3都市周遊7日間』の貸切ツアーが関の山であろう、この入国管理官に、どう説得したものだろう。彼は手のひらを紙に向けて差し出し、書くのを促した。僕はしぶしぶ紙を手にとり、そして2つめの間違いを犯した。嘘をついたのだ。パニックになった僕は東京で3ヵ月を過ごしたという話が信じてもらえないと思い、大阪の友人のところにも滞在したと、ありもしないことを書いたのだ。彼はそれに即座に反応した。
「大阪!?」
彼は驚いたふりをした。矢継ぎ早に質問を浴び、僕は最後まで答えさせてももらえなかった。僕をひるませるこの作戦は大成功で、僕は訪れた寺院の数や見た歌舞伎の回数で日本での時間を定義するつもりはないのだと言い訳しようとしたが、彼は僕の自己防衛の姿勢を察知した。彼は明らかに僕がしどろもどろになるのを楽しんでいた。僕はなんとか主張を通そうと、もう一度彼女からの手紙を持ち出した。
手紙に目を通しながら、彼は僕に東京の知人の名前と電話番号のリストを求めた。財布には友人の電話番号リストが入っていて、彼らに電話さえできれば冷静に僕を弁護してくれるはずだった。管理官は僕に一瞬の隙も与えず、僕が日本から出て行くのが確実になるまで解放する気はないという雰囲気になりはじめていた。僕はあたふたと電話番号リストを探しながら、この鈴木という男は僕の検事であり、裁判官であり、陪審員なのだと思った。この男は明らかに仕事を楽しんでいる。このちびの管理官はきっと、仕事終わりに居酒屋で同僚に、ばかな外人を笑い者にしながら、漁師のように今日の収穫の話をするのだろう。千鳥足で家に帰って奥さんにうやうやしく給与明細を渡しながら、こそこそ隠している青い上着に付いた染みは、きっとJR線にぶちまけた酒と刺身の吐瀉物のものだ。こんな光景は東京の夜の電車では珍しくない。彼の疑いはもはや晴らせそうになかったが、僕はまだ鈴木の外人釣り話のネタになんてなるものかと思っていた。
困ったことに気づいた。東京で買った一枚の磁気テープを偽造したテレホンカードを僕はいまだに持っていて、それが電話番号リストと一緒に財布のフラップに入っていたのだ。とある界隈でイラン人の行商人が売っているカードだ。違法テレカなど捨てたと思っていたので、隠そうとしたその時、磁気テープのかわりに貼られたアルミホイルが光を反射したらしく、僕の財布を凝視していた鈴木の目に留まった。
「財布を見せてもらえますか?」
テレカをしまったカードの束を片手に、僕は財布を渡した。
「そのカードも一緒に」
「あなたは悪い外国人ですね。とても悪い外国人だ」
彼はカードをひらひらさせて、子供相手にするように僕へのお説教を続けた。彼は同僚を呼んでお楽しみに加えた。鈴木は得意顔だった。彼は逮捕をちらつかせて僕を弄び、その同僚は田舎者のように笑いながら、手錠のジェスチャーをしてみせた。二人は互いに日本語で何か言い、鈴木は電話を手にしてどこかへ掛け始めた。僕は彼女の母親には電話しないで欲しい、同棲しているのは秘密だから恥をかかせたくないし、家族に迷惑になるから、と懇願した。そんなことはどうでもいい、と彼ははねつけた。
僕は何もできず座っているだけだった。彼が誰に電話しているかもわからず、電話をとった相手が警戒し、上手に嘘をついて僕をこの状況から救い出してくれることを祈るしかなかった。僕には好都合なことに、彼は日本語で話すことにしたようだ。後から来た係官を見上げると、視線に気づいた彼はまた手錠のジェスチャーで僕をばかにして、まぬけな笑みを浮かべた。僕は日本人の名高いホスピタリティに大きな疑問を抱いた。彼らは個人の事情に介入せずにはいられないようで、もはやおしまいだと思った僕は、脱走という手段を検討してみた。うまくいきそうにない。入国審査窓口を飛び越えられたとして、職員たちに追われながら、税関の障害を越えるのは無理だろう。机の上のビニール袋を奪わなければ日本から出ることもできない。そう思うと、何かやらなければという気持ちがわき起こった。僕は誰に電話しているのか聞いた。僕には目もくれず、彼は彼女の母親の名前を指差した。あのままバンコクにいればよかった。
鈴木の突然の発作的行動に、僕は意識を取り戻した。
鈴木が唐突に断定的な言葉を口にし、僕はタイの回想から引き戻された。
「あなたはただの悪い外国人じゃない」
キャビネットから数枚の書類を取り出して向き直ると彼は言った
「あなたは嘘つきだ!」
彼はずいぶん感情的になっているようだった。僕を嘘つきと呼ぶのはお門違いだ。そもそも東京で違法労働をしていたかどうかという決定的な質問をまだされていないのだから。それに電話一本で僕が大阪にいたという嘘を見破れるはずはなかった。
「彼女は何といったんですか?」
返事はなかった。彼は薄いコピーの業務書類の束に署名するのに忙しいようだ。
「僕には自分に何が起きているのか知る権利がある」
彼は作り笑いで言った。
「あなたをカナダに強制送還します」
終わった。チェックメイト。日本の悪徳公務員、必死なカナダ人観光客に勝利。何を言うべきかわからなくなった僕は、どうしようもなくなった人間らしく、懇願した。時間をください。却下。アパートに戻って物を片付けさせてください。却下。電話をさせてください。驚いたことにこれは認められた。彼女のことしか考えられず、アパートに電話して悲しい知らせを伝えようとしたが、留守だった。
電話を切ると鈴木は僕の署名を求めてきた。自分の都合しか考えていないことに驚かされたが、彼には最初から僕の運命がわかっていたのだ。日記のコピーで足りなければ、偽造カードを持ち出せばいいだけだ。愕然とした僕は、機械的に書類にサインしはじめた。
「あいつは3ヵ月したらまた戻ってくるよ」
と、別に好きでもない人の声が頭にこだまして、僕は二度とそいつに話しかけるまいと心に決めた。このとき僕は最後の大失敗をやらかした。何の書類にサインしているか気にもかけなかったのだ。僕は異議申立の権利を放棄していたと後で知ったが、その時感じたのは敗北感と屈辱だけで、その感覚は大学2年のバスケットボールの準決勝の試合で、実際は1点負けていたのに1点勝っていると思いこんで試合時間の最後の10秒をやり過ごし、尊敬する教授に退学させるぞと脅された時のようだった。
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人間をかくも効率的かつ冷酷に扱い、システマティックに適格性を審査し、希望を打ち砕くやり方にはぞっとする。僕の心の目はその光景を歪め、もっと苦痛に満ちた、旅行者もまばらなどこか辺境の国境通過点で入国の承認を待つ場面へと変えた。名前が呼ばれ、僕は武装した兵士に連れだされる。10代の兵士が片言の英語で僕のランニングシューズを
「コンバース‥クール」
と褒めるのが聞こえ、僕は野原に連行される。ひざまづかされ、10代の処刑人のひとりが何か言うのが聞こえる。金をよこせ?裕福で太った彼の顔は...
「1泊300ドル払ってください」
僕は警備会社のオフィスに座っていた。この会社は税関と入国審査の手続きを終えた国外退去者の管理を請け負っていて、僕の死地への旅の妄想を中断したのは制服の太った男だった。きつく締めた襟から膨張したような丸い顔は、小さな青い帽子と相まって、やたら大きく見えた。僕は自分自身を閉じ込めることに金を払うよう強要されていた。
「イヤだ、払わない」
いまさら断固とした態度をとることに意味があるのかはわからなかったが、どうせ監房で一夜を過ごす権利を買わされるなら知ったことか。時刻は3時半。僕は1時の到着からずっと拘束されていた。事態は最悪で、日本に戻れる見込みはもうほとんどなかった。めまぐるしく事が進んだせいか強い反論を全くしてこなかったことに気づいた僕は、失うものがなくなった今、事態の進展を引き延ばすことにした。
「カナダ大使館と話をさせてくれ!」
彼は不信感に満ちた眼差しを取り戻した。日本人は対立的な行動への対処が苦手なのだ。
「無意味ですよ。あきらめなさい。もうおしまいなんです」
彼の言葉は耳に入らなかった。僕は領事館の人間と話すまで何も言わず何もしないことに決めた。椅子にもたれ、たばこに火をつけた。
「これは脅迫だ。大使館の人間と話したい」
僕は楽しんでいた。もうカモにはならない。要求が通るまで、挑発と拒絶を続けてやろう。僕は外国の公務員に脅されたカナダ国民なんだ!そうしてカナダ大使館が人を寄越すまで、僕はできるかぎりリラックスして待とうとした。バンコク滞在中、僕の一日はやっと辿り着いたバンコクのゲストハウスのロビーで受けるタイ古式マッサージで始まったのを思い出してみた。若くて綺麗なタイ人女性が首と肩の凝りをしっかりほぐし、強い手つきで筋肉のあらゆる痛みや緊張を取り除いてくれた。今や僕は東京ではなくバンコクを目的地にしていればよかったと思っていて、このざまからなんとか脱出できたら、すぐにでもバンコクに向かおうと誓った。
大使館から人が来ることはなく、電話も二度と使わせてもらえなかった。3時間訴え、叫び、机を叩き続け、僕の遅延戦術は正当化しがたいものになってきた。もう午後8時近くになっていて、電話が認められたところで大使館には誰もいないだろう。そうして結局、違法テレカの件で逮捕するぞと脅されて、僕は金を払い、その日入国を拒否された20数人の外国人と共に監房で一夜を過ごした。これが1日の平均的な違法入国摘発数だとすれば、年間収入200万ドルを越えるおいしい商売だ。侮辱のとどめの一撃は、ロサンゼルス国際空港からの接続便は手配すらされていなかったことだ。
こうして僕は1年間の日本への入国禁止を食らった。その先も入国しようとすれば入念な取り調べを受けるだろう。
バンクーバーに戻って、友人たちにこの話をした時、僕は再入国できていたらあの冬長野でオリンピックを生で観戦できたはずだったのが本当に悔しい、と言った。
「いや、冬季オリンピックはまだ98年からだろ」と誰かに指摘された。
僕は、嘘が下手なようだ。
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